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決定論に身を委ねるな、創造的であろうとするなら

創造的であろうとすることとは、もちろん、すべてがゼロの状態から自分の内からの生成力によって生じることを意味しない。

むしろ、ゼロからの創造なんてものは、所詮、人間には無理な話(いや、人間以外にとってもそうなはずだ)。創造とはむしろ、ゼロスタートではなく、すでに外的な環境から与えられたものもうまく利用しながら、ただ、これまでは存在しなかった組み合わせとしての新たなものを創り出す活動なのだと思う。

外的な環境からの影響

外的な環境からの影響を受けつつ、創造を行うといって、それは創造の成否を外的要因のせいにして良いという話ではない。外的な環境からの力を借りることは大前提であるにしても、主体的に創造を行うのはあくまで活動の主体である自分たちだからだ。

ひとつ前で紹介した『アンリ・フォシヨンと未完の美術史』では、普仏戦争でドイツに敗れたフランスにおいて、極度のドイツ嫌悪として、ドイツからの影響をことごとく嫌う流れとしての「ドイツ問題」があったことが紹介されている。

第3共和制やそれによって進んだ古典からの離脱を図った教育改革も、ドイツの悪影響だとされたし、ダヴィッドらの新古典主義絵画もドイツの偉大な美術史家ヴィンケルマンが古代ギリシアやローマの芸術を賞賛したことの悪い影響で、それによりフランス絵画は堕落したとされた。

つまり排他的なナショナリズムであり、外のものは悪で、そこから影響されたものはすべて堕落するという決定論である。
悪いことはすべて外のせいにし、いいことは自分たちの力によるものだという典型的な排他主義である。

影響があるから固有性は生成or顕在化する

そうした排他的なナショナリズムが力をもった時代のフランス20世紀初頭にあって、フォシヨンのヨーロッパ美術史観はそうした姿勢をとらなかったとされる。

この視点の違いに対応するのは、影響という現象の評価である。先に見たように民族主義的立場にとって影響とはそのまま優劣の反映であり、自らが被る影響は常に害悪であった(一方、自国が及ぼす影響はそうではない)。彼らにとって影響とは、創造とは対極的な直接的模倣であり、隷従だからである。だがピレンヌ、そしてフォシヨンにとって影響あるいは伝播とは固有性の否定ではなく、むしろそれを生成ないし顕在化するものである。その際鍵となるのが、その地に独自な環境という要因である。ヨーロッパ規模の歴史的現象は、各国の環境に応じた形態をとって根づくだろう。

排他主義的ナショナリズムはとにかく外から入ってきたものの「影響」を0/1で捉え、影響を受けた→ダメ/影響がない→いいと単純化してしまう。それに対して、フォシヨンらの立場においては、影響そのものを単純にして純粋な外から内への同一物の移行のようなものとしてではなく、外から加えられた力を通じて元から内にあったものから新たなものが生じてくるといった捉え方をするという、対照的な関係がある。

後者においては、外からの影響はまさに「固有性の生成ないし顕在化」であって、良い意味でも悪い意味でも外的要因を変化の主要因とはしておらず、主要因はあくまで自分たちの側に置いている。ようするに、外から影響を受けて悪くなるものもいれば良くなるものもいて、それがどちらに転ぶかは受け手次第の取り組み方次第であるということだ。

決定論に身を委ねた瞬間に創造は不可能になる

だから、環境によって影響を受けて自分たちが変わるだけということはない。

そんな決定論的な単純化で自分たちの責任を逃れようとしてはダメだ。特に創造的であろうとすれば、そのような決定論を受け入れた時点で何かが生まれる可能性を自ら放棄したことになる。決定と思われるところに新たなものを可能にするからこその創造だろう。決定論的な思考ほど、創造から遠いものもないだろう。

創造的な場においては、創造者は自らゼロの状態で創造を行うのではなく、積極的に外からの影響を受ける。

だが、影響の方向性はその一方に流れるのではない。
創造的であろうとすれば、創造者は外から影響を受けると同時に、外に対してそれ以上に影響を与えるよう働きかけなくてはならない。プロジェクトなどでチームビルディングが大事なのもそれが理由だ。
自分たちの固有性が外からの影響で生成もしくは顕在化するのと同時に、外の環境の意味もそこで同時に生成されるのだ。そうした環境と創造物の相互作用を理解しているかどうかはすごく重要なことだと思う。

やがて『かたちの生命』でフォシヨンは、民族性、国民性そのものもまた歴史の産物であることを明確に指摘するだろう。そして環境と芸術が相互作用の関係にあり、それゆえにテーヌ流の環境決定論に決して与しないことも。

環境によって何かが可能になったり不可能になったりしない。なぜなら、何かを成そうとする以前に環境の側の意味など決まらないからだ。

自分の行為が外の環境の意味をつくり、そのつくれれた意味によって自分たちの創造が可能になる。
自分たち自身が変わらないと外は変わらないし、外を変えられなくては創造も叶わない。
「しょうがない」なんて言葉ほど、創造に似つかわしくない言葉はないのでは?と思う。

外の環境との対峙によって、ちゃんと自分(たち)が何をなそうと期待してるか、何であろうとしていると望んでいるか。その自分たちの目指すものが心の中に描けた状態で、外に目を向け、相互作用が生じるよう働きかけること。

それが創造を企てる際の大前提となる姿勢ではないだろうか。
たまたま、いまはそれを共創だとか、オープンイノベーションだとか特別なことのように扱いたがるだけで、そもそも創造においてはそうした取り組み方しかありえないと思っている。


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