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文書を書くことで……

書いてみないとわからないことがある。

普段から文章を書き慣れていない人は、文章とは、自分が「わかっている」ことを書いて表現するものだと思っているかもしれない。
けれど、頻繁に文章を書いている人なら知っているとおり、書きはじめるときには何を書くかが定かではないことでも、書き進めることで何を書いているかが、自分でもわかってくるということがある。

僕なんて、むしろ、そういう場合の方が多いくらいだ。

文中にはいる1つの要素さえ、思いつけば、まず書きはじめることができる。思い浮かんだ、その要素から直接書きはじめることもあれば、その要素について話しはじめるための前段となりそうな話を考えることで文章を書きはじめることもある。

とにかく、その時点では文章全体がどうなるかなんて僕自身見えていない。
いや、見えていないものが書くことを通じて見えてくるからこそ、僕は文章を書くようにしているのだと思う。書くことを通じて発見がある。

書いてみないとわからないことがあるのだ。

アウフヘーベンの嘘に気づく

1つ前のnote「スケープゴートとのアウフヘーベン」もまさに、そうだった。

書きはじめる前は「異なる意見をもった人ともアウフヘーベンすることが大切だよね」という主旨のことを書こうと思っていたのだった。

けれど、読んでみてもらえばわかるとおり、内容はアウフヘーベンは大切だ!という話では終わらなかった。
書き進めていくうちに、アウフヘーベンの対象となる相反する意見をもつ自分と対立する対象そのものが、元は自分の一部であり、自分を良く見せたいがゆえに外へと切り離したものであることに気づいてしまったからだ。
対立するものとして批判の対象にしているもの自体、元は自分の正当性を主張するために犠牲として差しだした双子の片割れのようなものだということに気づくと、必要なのはアウフヘーベンなどという弁証法的処理以前の思考のルールの定義し直しであることがわかったのだ。

そう、ヘーゲルがアウフヘーベンなどといって弁証法を確立しなくてはいけないと思ったこと自体、もともと対立する2項というものが同一体であり、それを何らかの「純化」の目的で、一方が他方を、あるいは両者が互いに、相手を切り離したという隠された前史があることを、意図的か無意識的にかによらず、無視したことによる。元は同一体だったという前史を見ずに、分かれて対立する(ように見える)2者を合一させようと考えたわけだ。最初からそれは1つだとわかってる立場からすれば、まったくの茶番である。自分たちで勝手に対立させておいて、仲直りさせようというのだから。

ようは自分のダークサイドをちゃんと認められるかという話だ。
自身のダークサイドを見て見ぬ振りができるようにするため、自分の持ち物ではないかように外に破棄しようとする態度をやめるべきだ。

こんな風に自分がぼんやりと考えていたことの背景にある「嘘」や「勘違い」にもそれについて書きながら、自分が考えていることをあらためて整理しなおすことではじめて気づくことができる。

文章を書くことの意味は、そういうところにこそあるのだと思う。
人に読んでもらうためだとか言う前に自分が読むためにこそ文章を書くことの最大の意味がある。

文章の自動生成

さて、そんな話をした上で、ここで円城塔の短編集『バナナ剥きには最適の日々』所収の「AUTOMATICA」のなかの、こんな記述を紹介しておきたい。

注目されるべき点は1つです。ここで漠然と情報と呼ばれているものは、読む者と読まれる者、どちらか一方の裡のみに貯えられているものではなく、両者の間の関係として存在するということです。

そう。こうであるがゆえに、自分が読むために書くということの意味がある。読む者と読まれる者の間に情報が存在するのだとしたら、書く者となることでその文章を読む者と読まれる者の両方の立ち位置を自分が同時に占めることで、そこで自分の中のみで情報の発生に立ち会うことができるようになる。
書くことでわかることがあるというのは、まさにこの読む者と読まれる者の両方の立ち位置を同時に占めることで情報が新たに生成される場に立ち会えるからに他ならない。

ところで、この円城塔の「AUTOMATICA」という短編はその名が匂わせているように文章の自動生成に関する話で、面白いのは、文章の自動生成の「困難は、読まれる者と読む者の間の相互作用を、読む者自身が記述しなければならないところに存在します」とされるところだ。

双方の相互作用に自動生成の困難さがあるのが何故かといえば、

文章を読む際に起こる相互作用が、一体どんな形を採るのか、我々はほとんど知らずにいるままなのです。その証拠として我々は今尚、文章を読み続けているのであり、その解釈や感想を巡り、新たな文章を作り続けているわけなのです。相互作用の形式を明快に見てとれるなら、それらの作業の大半が無用となっているはずです。

となる。
文章にまつわる読む者と読まれる者の相互作用が、謎であるがゆえに、僕らはいまだに文章の自動生成(チャットボットのような応答的な生成ではなく、小説のような創造的な文章の生成)が実現できていないのかもしらない。
そして、それは僕らがいまだに文章を読み、文章を書くという生態系の中に居続ける理由なのだろう。

こんな風に言えるのは、

先に確認してみた線で、文章に含まれる情報は、読む者と読まれる者の間に存在するとしておきます。その場合、自動的な生成に必要なのは、両者の間で交流している作用の記述と、その実行系に他なりません。多少の大胆さに目を瞑るとして、記述とその実行は、読まれる者と読む者と言い換えることが可能です。ここで登場する、読む者、を人間以外のものと設定したとき、自動生成は立ち現れます。

だからで、チャットボットやスマートスピーカーのように「読む者、を人間以外のものと設定」できる場合には、そこから「自動生成は立ち現れます」となる。ようは、そうしたAIは話し手/書き手という以前に、聞き手/読み手であるということだろう。

傑作を自動生成するために必要な入力は?

むずかしいのは逆に、読む者、を人間と設定した場合だろう。

同じ円城塔の作品で、まさに「AUTOMATICA」をある種の設計図として生まれた自動生成機械としての「私」を巡る私小説『プロローグ』にこんな記述があるのは、まさに読み手を人間とした自動生成のむずかしさが現れている。
登場人物の一人、小説家である椋人が、担当の新人編集者である羽束に、自動小説生成機があると仮定した際、傑作を書いてもらいたい場合、命令形で指示するのと、丁寧にお願いするのとではどちらが傑作を書いてもらえるかを問い、羽束が後者を選んだシーンでのことだ。

君はやはり良い人だ、と椋人は言う。このまま編集者としてやっていけるのかどうかが心配になるくらいに。いいかね、ここで君が相手をしているのは単に入力に応じて生産物を吐き出す機械にすぎないわけだ。(中略)そんな能無しの御機嫌を伺ってどうする。相手は人間じゃあないのだ。だからどんな言葉をかければより素晴らしい『傑作』ができあがるのかは全く明らかじゃない。

ここでは読まれる側が自動生成機械、つまり人間ではないもので、読む側は人間であるという想定がされている。その場合、「傑作」を生むために編集者は自動生成機械に対して、どんなインプットをすれば良いかわからない。

これはまあ、当然だ。
機械は単なるブラックボックスであり、その機械に「何を入力すれば傑作ができるか?」という問いは、結局のところ、傑作を生むためにはどんな文章を書けば良いのかという問いと基本的に同じことだからだ。

それをわかりやすく言うと、こうなる。

その機械に「あ」と一言書かせる命令は一体どんなものなんだ。「あ」かね。それとも「い」かね。君が「う」と命じたら、作家機械が「あ」と書いたりするわけだ。すると君はひらがな10文字でできた文章を依頼するために、ひらがな10文字を指定することになったりする。でもそれじゃあ、求めるものをあらかじめ妙な形に変形してから入力しているのと同じじゃないかね。それならばいっそ最初から自分で書いてしまったほうが早いのでは、ということになる。

こういうことなのだ。

僕らは自分自身という対象も含めて、読む人が何を読めば喜ぶのかがわからない。
だから、喜ぶ文章を書くにはどうしたら良いか?をシステム化するより、実際に書いてみたほうが早いということなのだ。

そう。今日も僕は僕にこれを読んで喜んでもらうためにこれを書いている。


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