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作ることはゴールではない

今朝通勤途中に歩いていて、ふと思った。日本のビジネスの現場には、最終的に何かを作りだすことがゴールであるかのような幻想があるのではないだろうか?と。

ものづくりへの過度な期待も、クリエイティブということばの独特な捉えられ方も、デザインやアートの持ち上げられ方も、何か具体的なモノ(非物理的なデジタルなものも含め)をアウトプットすることそのものがゴールであるように捉えてしまう、間違った考えが常態化してしまっているからではないだろうか。

だから、とにかく作ろうとしてしまう。何を作りましょうか?といきなりくる。

いったい、何のために?

そう、問うてもまともな答えは返ってはこない。作ること自体が目的になってしまっているのだから。

本来なら、何のために?が定められていないまま、好き勝手につくったものが何かのゴールであるはずはない。
何かができたとしても、まだ何もはじめられていないし、スタート地点にさえ立っていない場合だってある。
つまり、ゴールでないどころか、はじめることにさえ関心を持たないまま、ただ作られる。

それでは仲間内にしか認められるものにならない。
社会にとって必要なもの、何かの役に立つものにはなりようがないのではないだろうか?
意味のあることをやりたくはないだろうか。作りたいという欲望に身を任せて、その欲望を満たす以外の価値をもたないものを作ってしまうよりも、他人からも価値を認めてもらえる仕事をしたくないだろうか。

だから、作るという選択肢を前提にしない始め方がもっと普通にたくさんあっていい。
何が問題で、どうなることが理想なのか、そのギャップはいかにしたら埋められそうか?というところから考えはじめて、それで本当に自分たちが為す必要があることを決めればいい。
とにかく何を為すか?の前に、何のために何かを為す必要があるのか?を決めることからだ

何のために?という目的が見えてようやく、何を為すべきかを考えられるスタート地点に近づいたことになる。
その為すべきことが何かをつくることかもしれないし、まず、その前に、もっと問題の核心について理解することかもしれない。なぜ、その問題が起こっているのかを人々の心理や生活の中をのぞいて考えてみてもいい。

いずれにせよ、まずはギャップを埋めるための具体的な作業のリストとその手順をデザインしてみることだろう。そう。課題解決のためのプロジェクトをデザインすることだ。

クリエイティブであるということは、必ずしも何か目に見えるものをデザインすることではない。ここを誤解してはならない。
見えないもののデザイン」というnoteでも書いたように、「なんでやる必要があるのか?を問うことからデザインははじまるのだと思う」し、なんでやるかを既成概念にとらわれずに本質的な目で定義できることのほうが、とにかく作ろうとか、何かやろうとか思いつきではじめるより、はるかにクリエイティブだと思う。

背景、目的、目標、現状、対象者などの情報を集めてなんのためにデザインを行うかを明らかにした上で、具体的にデザインによって取り組むべき課題は何かの方針をしぼりこむ。ここまで揃えて、ようやくデザイン本体がはじまるイメージ。

と書いたとおりで、この部分をいかに独創的に定義できるかの方にこそ、創造性は求められている。そして、この定義の先にあるプロジェクトからこそ、社会が必要とするものが創造されてくるのではないか?と思う。
だからこそ、この定義のための情報収集、整理、構造化といった力とそれを行う時間こそ、いまクリエイティビティとして最も求められているものなのだと思う。

いや、デザインという観点で、みてしまえば、課題と方針を定めるところはプレデザインの工程で最上流の工程、そこから具体的なものをつくりこむところは下流工程と考えたくなるが、これ自体、作ることをゴールとする間違った考えからの発想だ。そういう上流から下流という流れとは異なるところに、何のためになることをやるのか?という問いは、常に創造的なものとして存在すべきなのだろう。

なのに、残念ながら、この部分から丁寧にクリエイティビティを注ごうとする創造の場が少ないのだ。

その意味では、イノベーションは果てしなく手の届かないところにある。

#エッセイ #コラム #イノベーション #ビジネス #課題 #クリエイティブ #デザイン

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