言葉にしなければ……

日々あらゆることが起きている。
だが、そのことを本当に起きていることにするには、ちゃんと「起きている」と弁明する必要がある。

声に出さなくてもいい。
とにかく、自分の頭の中でだけでも「起きている」と言葉にする必要がある。
弁明がなければ、何も起きていないことになる。なるというか、起きなかったのだ。

確かに何かが起こったと認識可能な出来事は起きていたのかもしれない。けれど、言葉にしなかったというのは、たぶん、認識可能だった出来事を見過ごしたのだろう。
見過ごしたことは果たして起きたといえるのか?
誰もいない森で倒れた木は音を立てたのか?

希望がない

「現象世界は多様な姿をとって眼前にある」というのは、エルネスト・グラッシである。「それは解釈を要する」とグラッシは『形象の力』で書く。ここでいう解釈は弁明だ。言葉にすることだ。

実際、グラッシもそう言っている。

この解釈が実行されない限りは、ないし現象が意味、記号、形相を与えられない限り、われわれは希望なく世界の前にたたずむ。なにしろすべてが記号なしならば、どうして何かを発見することことができよう? 記号なき世界はあらゆる衝動が方向を持たないままである。

人間は、現象に、意味を与え、記号を与えないといけない。それがない限り、人間は世界に立っていても希望がない。目の前に世界があっても何も見つけられない。発見できない。
現象世界がどんなに多様な姿をとって眼前にあったとしても、言葉にしなければ、それは何ものでもない。少なくても言葉をもたないものにとって、それは何なのか見つかっていない。
言葉にしないというのは、そういうことだ。何も見出そうとはしていないということだ。希望がない。

見つけるためには「見つけた!」と言わなくてはいけない。何を見つけたのか、どう感じとったのかを言葉にしなくてはいけない。
言葉にすることは何かしらの衝動をもつことだ。衝動があって初めて人間は世界と関係をもつ。

だから、詩が先、科学は後なのだ。
言葉にして発見しなければ、それは存在せず、したがって何の分析、考察の対象にもならない。

僕は最近そのことばかりを考えている。
科学の前の言葉、あるいは文字が生まれる前の言葉の世界で、人は何をどう見たのか?と。
書き記すための文字がなく、多くの言葉を操る分析や考察ができなかった時代に、人は詩の言葉で何を知ったのか?と。

告発

グラッシに戻ろう。戻ると言っても、また、ぜんぜん異なる地点に。

グラッシは言う。「ある現象についてのその存在、その質、その量等々を問うことは、ギリシア人にとっては存在しているものについてあれこれを〈告発する〉、ないし決定することを意味した」のだと。

告発する。あるいは、決定する。
それが現象の存在や質について問うことになるとはどういうことだろう。

クインティリアヌスはギリシア語の述語〈カテゴリア〉を法的素材にも関係づけて本来の意味へと戻したのである。さて、人間にとって自分の状況の特殊性は何を本質とするか。それはすべて存在するものを定義し、カテゴリーに応じて〈告発〉せねばならず、そうすることで人間の秩序を確立することである。だとすれば、存在は〈訴え〉としてのみ姿を現すことができるのであり、われわれが存在に即することができるのは、われわれに関連する場合のみである。

またしても、告発、訴えがなくては、存在は姿を見せないのだ。存在は人間の告発があってこそ存在する。
誰も告発する者がいない森で倒れる木は音を立てないのだ。いや、倒れる木そのものの存在があやしくなる。

そして、言葉にしなければ、人間自体の存在があやしくなる。言葉しなければ何も発見していないことになるし、発見されない世界との関係も切り離されたまま。すなわち、世界にとって言葉を発しない人間は存在しないも同然。言葉にしてはじめて人は世界との関係を結ぶことができる。

世界は言葉にする者の前にだけ存在する。愛する者は愛の言葉を発する者の前にのみ存在する。言葉を発しない者、愛の言葉を知らない者には、世界も愛を受け入れてくれる人も手の届かぬ存在だ。

言葉にした数だけ、世界との関係をつなげることができる。世界との多様な関係を結ぶことができる。

みんなが言葉にしない世界よりずっと

今日は午後から何時間もずっと、数年先の未来の社会の変化についての予想を言葉にし続けた。ひたすら、未だ来ていない社会で起こるかもしれないことを言葉として紡いでいた。
それは確かに存在しない世界だ。
まだ誰もいない社会。
その社会で起こるであろう音に耳をそばだて、言葉にする。そうすれば、言葉にされずに存在を忘れられているいまの世界より、よっぽどその世界は僕らとつながってくれる。
みんなが言葉にしない世界よりずっと。

忘れられた世界。
世界から忘れられた口数の少ない人たち。

そもそも弁論を介してしか人間は社会を形成できなかったろうし、その社会をして固有の、つまりもっとも固有の〈内容〉に到達させるのが弁論なのだ。

そう、グラッシは書く。
弁論を通してのみ、言葉にすることを通してのみ、僕らは社会の固有の内容に到達する。

言葉にすることって、そんなにも大事なことだって、みんな、気づいているだろうか?

#コラム #エッセイ #言葉 #詩

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Hiroki Tanahashi

言葉とイメージの狭間で

ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
2つのマガジンに含まれています
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