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細やかな事物

ちゃんと丁寧に考えることがなんとかできて良かったと思う。

ちゃんと丁寧に、安易なわかりやすい答えに欺かれることなく、何故?を問うことを必要なだけ行い、あ、そうかと心底感じられるところまで、何故、何らかの行動を起こす必要があるかを明らかにした上で、本当に行うべき行動の計画を立てる力がどうにかこうにか自分にそれなりには備わっていて良かったと今日は思った。

その力さえあれば、困難な問題を前にしてもなんとか光を見つけることはできるから。
答えはすぐに見つからなくても、適当な答えに騙されて疲弊するようなことは避けられるから。

逆さまからみれば、疲弊の原因のほとんどがそういう丁寧な思考なしの適当な行動ゆえに発生するものということなんだけど。

とにかくやってみればいいなんてことはどこの世界でも通用しない。

ちゃんと丁寧に考えることは自分を守るし、面白い方向に進める権利を自分にくれるのだと思う。

建築家のアルド・ロッシが『自伝』の最初にこんなことを書いている。

事物の混乱は、限定され何らかの素直さに裏付けられているならば、われわれの精神の状態にそのまま対応しているのではないかと感じられた。しかし、私は、とりとめのない混乱を忌まわしく思った。これは秩序への無関心、一種の道徳的な鈍感さ、何の不自由もない安寧、健忘症なのだ。それでは、私は己が技を通して何を思い望みえたのか。確かなのは細やかな事物ということだ。というのも、大がかりな事物の可能性は歴史の中で排除されてきたからである。

事物の混乱は、精神の状態に対応しているのだろうと僕も思う。

数日前にこの文章を読んだときも「いいな」と感じたが、今日のいまの気持ちには、さらに素敵な心持ちだなと思う。

ちゃんと丁寧に考えて、精神の状態を整えさえすれば、外界もすこしも混乱していないことに気づくことができるはずだ。それなのに、丁寧に考えること、いや、考えること自体をなせだか避けてしまう人が少なくない。

世の中が混乱してたり、問題だらけに見えるのは、精神でそれを混乱や問題から引き離すために必要な、丁寧な情報の整理や組み立てをサボっているからでしかない。とりあえず、やってみるなんてことがはびこっていたら、混乱と問題だらけの状態で衰退していくだけだ。
それは「秩序への無関心、一種の道徳的な鈍感さ、何の不自由もない安寧、健忘症」なのだから。
そんなことをしていたら、混乱も問題もなくなるはずはないし、むしろ、それらを増やす要因でしかない。

だから、混乱や問題を減らそうとしたいなら、何故なのか? 本当に目指すべきはな何なのか?を問い続け、ちゃんと丁寧に、その答えを見つけるための情報の整理と組み立てを行うことを避けてはダメだ。

大雑把な事物に惑わされることなく、たしかに存在する細やかな事物に目を向けることを忘れないようにしたい。
そして、いつもそのことを忘れずにいさせてくれる友人にも感謝したい。

そういう意味で、いろんな人の力も借りつつ、なんとか考えることを避けずにこれたので、どうにかこうにか、いろんな意味で、楽しく、幸せに生き延びてこれたのかもしれない。

ちゃんと丁寧に考えることだけはサボらないでいられることに感謝を感じた、生まれた日の1日でした。

#エッセイ #コラム #思考 #記念日 #感謝

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