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パッチワーク・モンスター

そうそう。こういうことなのだ。
僕らはすこしも世界から疎外されてなどいない。

私たちは粘着性の汚物の中にいるというだけでなく、私たち自身が汚物なのだが、私たちはそこにひっつくやり方を見出すべきであり、思考をより汚いものにし、醜いものと一体化し、存在論ではなくてむしろ憑在論を実践すべきである。

すでに読み終え、一つ前のnoteで紹介したモートンの『自然なきエコロジー』より再び。

汚物の中にいる汚物がまわりとひっつくやり方は、ロマン主義の時代にすでに生み出されていた。そう、『フランケンシュタイン』という作品において。

フランケンシュタインの怪物は、読者の視野の「前方」へと引っ張り出された環境の、ゆがめられたアンビエントな部類のものだが、つまり、まさにその形式がひどい分裂を具体化している「現実的なものの回答」である。阻害された社会の残酷さの恐ろしいほどの醜さであり、啓蒙された反省の苦痛に満ちた雄弁である。このような醜い対象なくしては、美しき魂は必要とされないだろう。もしも毒まみれの森に話すことができたら、それはフランケンシュタインの怪物のように聞こえるかもしれない。

つぎはぎだらけの人工の怪物は、汚れた自然を縫い合わせて継ぎ合わせてできている。それは背景に隠れてあるはずの「毒まみれの森」、産業革命以降に汚れはじめた環境が前面化してしまったものである。

昨日は「外側」であったものが今日には「内側」のものになるだろう。私たちは奇怪なものと同一化する。私たち自身が、ガラクタの小片と細片でみすぼらしくつくられている。

そう。怪物フランケンと僕らはすこしも変わらない。
僕らも様々なモノを人工的に縫い合わされたつぎはぎだらけの身体でいることに変わりないのだから。

ゆえに、

もっとも倫理的な行為は、他者をまさにその人工性において愛することであって、その自然さや本来性を証明しようとすることではない。

いわゆる自然と思っているものが、どれほど人工的なものか。すくなくとも、フランケンシュタインと同様、自然物と人工的なものが分別できないくらい混ざり合って、汚れのみを取り除くことなどもはや不可能になっている人新世の環境が、どれほど怪物的か。

モートンの本の訳者である、篠原雅武さんは『現代思想 2019年1月号 現代思想の総展望2019 ―ポスト・ヒューマニティーズ』所収の「人新世的状況における「人間の条件」の解体における試論」で、デペッシュ・チャクラバルティの論文について、こう書いている。

チャクラバルティは、クルッツェンのような科学者の思考の前提にある、人間を種的存在と捉える観点を受け入れていく。それは、人間を「生命形態」と考えようとすることだが、つまり、「人間の歴史をこの惑星にある生命の歴史の一部とみなしていく」ことである。人間以外の他の生命形態との相互的連関のなかで営まれているものとして人間をも考えていくことである。

そう。ここで言われているのも、人間をフランケンシュタイン的なパッチワークとして考えるということにほかならない。それは物理的にさまざまな自然の存在のパッチワークであると同時に、歴史的にもそのつぎはぎの中にあるものとして捉えるということだ。

このように考えれば、心と身体だとか、人間と自然だとかいう二元論は無意味化する。「自然環境は人間によって利用されるために存在するという信念のことである」というような西洋的人間中心主義などもそもそも意味をなさなくなる。それらはそもそも分別できないほどに互いに汚物まみれなのだから。

そのことでさらに、人間が生きているところ、つまりは人間が存在するまさにそこのところへの理解の仕方も変わってくるし、温暖化のもとで脅かされているものが何であるかの見え方も変わってくる。「惑星の温暖化が脅かすのは地質学的な惑星ではなく、完新世の時期において発展した人間の生命の生存が依拠することになる(生物学的で地質学的な)条件そのものである」とチャクラバルティはいう。

そう。地球自体がひとつのフランケンシュタイン的なパッチワークの怪物だ。
それは人間と地続きである。その地球の環境の人新世における危機は、それとパッチワークとなった人間そのものの身体の危機にほかならない。完新生の大地とともにあった人間ほか、それといっしょくたになった微生物は、人新世の大地でどう生きうるのか。

人新世的状況の進展にともないみえてきたのは、市場や中央集権コントロールシステムのような人為的構築物だけで人間が生きているのではなく、この構築物をも下支えする深層的な現実があり、そこにおいて人間は生きていた、ということである。

と、篠原さんは書く。この深層的現実は、人間そのものとも人工的構築物とも深く複雑に絡みあって、もはや解きほどくことさえままならない。
ディープ・エコロジーだとか、SDGsの発想が何かすこし足りないのは、こうした見方であって、環境を対象としてみている間は、何も変わらない。

これはブルーノ・ラトゥールが『虚構の「近代」 科学人類学は警告する』で掲げる図。

人間、非人間、なかば抹消された神を同時に生産すること、そうした同時生産を隠蔽しつつ3つを独立したコミュニティとして扱うこと、分離した扱いの産物として、水面下でハイブリッド(異種混交)を増殖し続けること--以上の3つの実践から近代は成り立っている。人間と非人間の分離、水面上で起きていることと水面下で起きていることの分離、この二重の分離が近代人として私たちがどうしても維持しなければならなかったものである。

と、ラトゥールは書いている。図の上部の分割されて、互いに連携しようがないくらい純化されたものと、それらを突き破ってハイブリッドにパッチワークされた異種混交物を扱えるハイブリッド・ネットワーク。この両者が両立しないのが「近代」だといい、そんなものはもはや存在しないとラトゥールは言う。

まさにそうだ。
純化されたものとハイブリッドなものを同時に扱える必要が、僕らパッチワークでできたハイブリッドな怪物である僕らにはある。

モートンは言う。
「ダークエコロジーは、私たちには私たちの心から逃げることはできないと告げる」と。

私たちが逃げることができないのは、心も身体も、どこにも逃げようもないくらいに、汚れた土台につぎはぎされているからにほからない。


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