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考えるの素材

なんらかの仕事を成し遂げるために思考をする際、必要になるのは考えるための素材だ。
どんなに思考力があろうと考えるための素材が使える形で手元(いや、頭の中の"手元"的な場所にだ)にないと、考えることはできないのだから。

思考による組み立てはたしかに抽象的作業である。だから、もちろん実体としての素材はなくともなんとかなる。

かといって、抽象化された状態の素材すらなければ、何も加工できないし、組み立てられないのは、実体をもつモノでの創造となんら変わらない。
組み立てられた全体がパーツひとつひとつとは別物であるように、素材である情報を組み立てたあとの思考は元の素材とは異なる。

だからこそ、僕らは集めた情報を組み立てて新たな思考へと組み立てないと、日々情報に接してる意味などない。ただ、ひたすら他人のnoteを読むだけでなく、読んで見つけた知の断片を元に自分の思考を組み立ててこそ、意味はある。

いわゆる知識が必要なのは、まさにこのため以外の何物でもない。
それはどんな仕事のための思考でも同じだろう。ただの情報ではなく、自分で組み立て直した思考をともなう情報だからこそ、仕事になる。そのためだからこそ、組み立てる素材となる情報を集めることに価値は生まれる。

考えるための十分な素材を持っているからこそ、考える際に困らない。素材が足りなければ思考がままならない。目的の達成にまでも届かない。

もちろん、検索などしてすぐに足りない知識を補う情報が見つかればよい。その意味で昔ほど、頭の中に無意味に知識を詰め込んでおかなくとも良くはなっている。

知識をどこに置くか? それはどの知識をどの程度の頻度で使うかにもよる。
だが、その見積もりが甘い人が多いのだろう。"手元"に置いておくべき知識の量を圧倒的に少なく見積もってるのだと思う。

知識を上手に組み立てられない人ほど、そうなりがちだ。組み立てられないから組み立てられる量しか置かない。
けれど、それではセレンディピティの確率は極めて低くくなることに気づいているだろうか?

知識を自分の頭の外に置く。
むろん、それはインターネット以前に、印刷本の誕生〜普及の際にも起こったことだ。いや、厳密にいえば知識を記録しておける筆記の技術と道具が手に入ったときに最初に起こった。頭の中で記憶しておく必要は、外部記録を手にすることでどんどん減っていった。

ある意味、知識を組み立てられるようになったのも、知識というものを外部化してモノのように動かして並べたり、分類したりすることができるようになったからた。いまポストイットを使って、そうした思考作業をするようになったり、PC上で簡単に情報のコピペができるようになって、思考の組み立て作業はずいぶん行いやすくなっている。長文を書くこと、本を書くことさえ、原稿用紙に手書きするしかなかった時代に比べて、より多くの人が手を出しやすくなっている(まあ、だから、こういうnoteなどのサービスが成立する)。

人は知識をポータブルにする技術を確立した。それにより記憶の必然性は変わり、組み立て作業もずいぶんと容易になった。
頭の中に保持しておかなくてはいけない知識とそうでない知識を切り分けることができるようになり、人それぞれ前者にあたるものだけを集中して頭の中に残すという賢い選択が可能になった。

その選択はどんな仕事をしたいかによって変わってくる(変わるべきだろう)。ここまで仕事と言ってるが、別にここで言ってる仕事は、オフィスワークのことだけではないし、お金をもらってやってる仕事のことだけでもない。友達と遊びに行くのにも、家族と過ごすのにも仕事はついてまわる。いや、ひとりで日々生きていくだけでも仕事がない状態でなど、いられない。

そうであればこそ、人間にとって知識をどう保持するかはいまなお大事なことでもある。

詰め込み型の教育の是非が問われて久しい。
それは詰め込むだけでなく、詰め込んだ素材をどう使えるようになるかとか、そもそも何を素材として自分が保持すべきかの取捨選択がうまくできることも同じか、それ以上に大事からだ。

その当たり前のことに社会が気づいて、詰め込むだけの教育を変えようとする動きが出てきたというだけで、知識を詰め込む必要がなくなったわけではまったくない。
いや、むしろ、詰め込む必要がなく都度検索すればよい知識も増えた一方、より詰め込むのが大変な知識を詰め込まなくてはいけない必要性は格段に上がっている。詰め込むこと自体がむずかしくなっていて、むずかしいことをあえて詰め込み、それを思考の組み立ての際に巧みに使いこなせる人の価値が上がっている。

人工知能の時代、ありきたりの組み立てなら人のやる価値はない。ありきたりでない組み立てをしようとすれば、ありきたりでない素材を扱うか、人がやらない組み立て方をするかしかない。
もはや、そういう状況がすぐそこまで来てるのに、人と同じようなメディアばかり見ていて、他人と同調するような意見ばかり言おうとしてるのはどうだろう?

ちょっと前にも引用したが、もう一度。

ぼくが本当に皆さんに知っていただきたいのは、学問や文化やにだれることなく、素朴な疑問を持って、それを解決する「方法」そのものを模索する、永遠に新しく、楽しい作業です。
何かを興味津々の「謎」や「暗号」として感じとる感受性、それを「解」くためにいろいろな知識を動員し、他人にはできないつなげ方で情報をつなげることで解決する。つまらぬことの多い今般の世の中、残されている数少ない真の知的悦楽、これ、と思います。

高山宏さんの『殺す・集める・読む』から。
「いろいろな知識を動員し、他人にはできないつなげ方で情報をつなげる」。このための努力ほど面白く価値のあるものはないのではないだろうか?

もうひとつ。今度はティム・インゴルドの『ラインズ』から。

読むことにおいて、ひとは物語を語ること、旅することと同じように、前進しながら何かを記憶する。つまり記憶という行為はそれ自体が一種の行為として考えられていたのである。テクストは読むことによって記憶され、物語は語ることによって記憶され、旅は実行することによって記憶される。すなわち、あらゆるテクスト、物語、旅は、見出される対象ではなく、踏破される行程なのである。そして、一つひとつの行程が同じ土地をめぐるものであったとしても、それはみな他とは異なった運動である。どんな実践も、記述物やルート・マップから簡単に「読み取られる」わかりやすいものではあり得ない。

テクストも情報も対象ではない。それは行程であり、工程だ。突き進む行程であり、つくりあげる工程だ。組み立てられた思考は元の情報のままではないと言ったが、それも情報は対象でもバラバラでもなく、各人によって経験される体験の連なりだからだ。その体験をどのような価値として解釈するかは自由だ。その自由には責任もある。その体験という自分の価値そのものを、人工知能や既存の説明などに受け渡しているままでいいのだろうか?

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