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見えるのではない、見えるようにするのだ

視野の広さって大事だと最近は繰り返し思う。

見えてないものは考えられないし、見えてないものには感情を動かされもしない。実際には、起こっている出来事でも見えてなければ、心配にもならないし、どうにかしなければとも思わないし、何か行動を起こそうとも思わない。
ようは視野が狭いと、行動や思考がかなり制限されているということだ。

危機も、チャンスも、目に入ってこなければ、何をしていいかもわからないし、そもそも何かしなくてはいけないと感じることもない。

視野が狭いと、冒険にも向かないし、実験的行動にも向かない。新たな発見や発明などはとんでもない。
昨日「保守的であること」について書いたけど、まさに視野狭窄が意志にかかわらず人を保守的にしてしまうということだ。

見ようとしなければ見えない

空間的な視野の広さ、時間的な視野の広さ。
自分のまわりのこと以外がほとんど見えていなければ、過去も未来も視界に入っていない。
他国のことも、歴史にも興味がないだろう。自分の日常生活以外のこと、将来のことにも意識がいかなかったりするのだろうか。

こりゃ、マズい! と思うのは、見えてない本人ではなく、そういうのも含めて見えている他人のほう。
見えていなければ、マズいということも見えてこない。

多くの人が勘違いしてると思う。
見えるのではなく、見るのだということに気づいていない。
見ようとする意志があって、はじめて見えてくるのであって、意志がなくては誰かがつくった幻想を惑わされて、見ているつもりになっているだけだ。

格好の事例が、ホルスト・ブレーデカンプの『芸術家ガリレオ・ガリレイ』で紹介されている。

ガリレオと同時代のある画家が望遠鏡を使って、月を描いたそうだ。
その時代、望遠鏡は発明されたばかりで、望遠鏡を使って、絵を描こうとする行為に至ること自体、その画家の好奇心の強さを示しているといえる。

ところが、である。

画家アダム・エルスハイマーは『逃避途上の休息』において満月を描きこんだが、その明暗のある月面はとても詳細なので、望遠鏡を用いただろうと推測される。ところがエルスハイマーの描くもやもやは、ヤン・ファン・エイクやレオナルドがとっくに到達していた正確さに遠く及ばず、望遠鏡を使えなかったチゴリが巨大な隆起のように思い描いた陰りに比べてもむしろ後退している。

そう。画家は見たはずの月をその見たままの姿に描くことができなかった。

時はルネサンス、自然の模倣、ミメーシスこそが絵を描く際の何よりの方法論であったにもかかわらず、画家はクレーターで凸凹しているはずの月の表面をツルッとした凹凸を感じさせない姿で描いた。

この画家だけではない。
同じ時期の地図製作者も同様だった。

イギリス人地図製作者トーマス・ハリオットもまた、おそらくその直後1609年8月5日に月を観察したようだが、目視情報を然るべく観察することができなかった。彼が眼にしたものは一葉のスケッチとして残されているが、光の当たった領域には何か不分明な断片的現象が示されている。

見たから見えるというわけではないことがわかる。
神がつくりしものは正しい正円であると考えられていた時代である。そう、思ってみたら、いくら望遠鏡で観察したとしても、あるはずがない(と思い込んでいる)月の凸凹なんて見えるはずがない。見えてはマズいのだから。

見ようとするから見える

月のクレーターを描いた絵の登場には、ガリレオによる月面の観察結果である、1610年の『星界の報告』の登場を待たねばならなかった。

それゆえ疑問が湧く。なぜ、ガリレイがその直後に現象の本質として明快にとりだせたものを、ガリレイの先行者は分かりやすく強調できなかったのか。

望遠鏡の性能の問題だろうか?
しかし、それだけではないのだ。

簡単に説明してみれば、ハリオットの6倍望遠鏡がガリレイのものより性能が悪かったということがあるかもしれない。事実、ガリレイの望遠鏡は若干高度な能力を備えていた。ヤン・ファン・エイクとレオナルド・ダ・ヴィンチがハリオットよりも月の正確な像を提供できたのは、公平無私に見るよう訓練された眼を持っていたからである。こういう事実を前にすると、現象認識を決定するのは、器械の性能などではなく自然観察と予見との相互干渉なのだという印象を強くする。

観察が即、何かが見えるということではないのだ。どんな予見を頭のなかに思い浮かべているかどうかで、何が見えるか、見えたと認識できるかは変わってくる。
月の表面には凸凹などなくツルッとしているという予見で見るのと、目で見た影のようなものを起点としてもしかすると影のように見えるものは月の表面に凸凹が存在しているからではないか?と仮説をもって、再度よく観察してみるのとでは、「見える」結果は変わってくる。

実際、ガリレオには単純に「見えていた」わけではないのだ。彼は「見えるようにした」のである。

彼の望遠鏡の拡大能力では、月の全身を観察するわけにはいかなかった。月表面の4分の1ほども視界を得られず、全体像を導き出すためには、内部の眼差しがあるかどうかが特別の問題だった。ガリレイが全体像を生み出すことができたのは、望遠鏡を覗いた時ではなく、素描によってである。素描はイラストでも補助資料でもない。掛け値なしに認知の必須メデイアなのである。

ガリレオの望遠鏡には月の全体は見えていなかった。
その全体を見ようとすれば、その部分を複数回模写して、その画像によって統合したものを通して全体を構成する必要があったのだ。

創造的に統合するから見える

これは現代の僕らがものを見る場合でも同様だ。

見えるのではない、見えるようにするのである。
見ることは、人間のもつ生物学的機能であるというよりも、創造的な行為に他ならない。

いつも見えているつもりのものの外側にあるものを見ようとすれば、複数の映像やその他の情報を頭の中や紙やデジタルメディアの上で、統合的に合成して、「全体」を創造的に合成してみない限り、何も見えてくるはずはない。
ガリレオが月の全体像を素描によって構成したのと変わらない。
ガリレオが想像力を使って、月の表面にある凸凹という仮説を立てなくては、真実が見えてこなかったのと同じだ。

見えるようにするためには、仮説をつくるための知識を多く持っていた方がいいということだ。知識が足りなければ想像力も働かない。見えないのは知識が足りないからだということは本当によくあることだ。

知らないことを目の前にすると、よくわからないとすぐに言ってしまう人がいるが、それはこの知識を使った仮説構成力が欠けているのだと思う。
それが欠けているのは、普段から意識して訓練していないし、知識を増やそうとしていないからだろう。

それでは見えるものも見えてこない。
月の表面はツルッとしてると信じ込まされてきた人たちと同様で、自分の目で月を見ているつもりが他人の幻想を追従しているだけだ。

遠い国のことも、過去のことも、将来のことも、そうやって観察したものと創造的に考えたことを統合してはじめて見えてくるものだ。
違う国のことに興味をもつこと、歴史に興味をもつこと、未知のことに目を向けること。それはすべて知ろうとする意志の問題である。それらがつまらなく見えてしまうのは、それらが本当につまらないのではなく、すべてをつまらないものに見せてしまう視野の狭さが問題なのだ。

目を向ければ自然に見えてくるものなんて何もない。

なぜ、そのことに気づかないのだろうか?
自分でつねに目隠しを外し続ける努力をしてなければ、あらゆるものが視界から閉ざされ、現実の世界から取り残されていくだけだというのに。


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