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曖昧さと不確実性

2月24日(土)に開催される、World IA Day 2018の東京セッションですこしお話しさせてもらうことになりました。
「曖昧さと不確実性」というタイトルで講演させてもらうのと、パネルディスカッションへの参加になります。

IAがテーマで、曖昧さとか、不確実性とかというと、そういうのはデザインする上で排除すべきという話をしそうですけど、そうじゃありません。
むしろ、情報って、そもそも曖昧で不確実なものだよね、という話をするつもりです。

知覚は経験を通じて能動的に観察者それぞれが探求するもの

アフォーダンス理論の創始者として知られるJ.J.ギブソンの流れを引く、エドワード・S・リードは著書『経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ』のなかで、こう書いています。

不確実性と両義性は生きていることの要素である、と考える人々は、経験へのデカルト主義的アプローチをいつでも不安と懸念をもって眺めてきた。

17世紀半ばから19世紀の初頭にかけて、世界を機械的なものとして見る傾向のきっかけをつくったもののひとつといえる、デカルト的哲学は視覚1つ取ってみてもカメラ・オブスキュラ的な機械的な理解をすることで、知覚や認知を本来曖昧さや不確実性が排除されたものと考えました。
ほぼ同時期に登場し、経験論でデカルトを批判したフランシス・ベーコンさえ、4つのイドラという形で人間の先入観や経験上の誤解からくる誤謬を掲げたことで、経験に正しい経験があるような印象を与えてしまった節もあります。

リードがこの本で行なっているのはそんな風に経験を排除したり、経験に正確さを求める傾向のある西洋的な流れに対しての、タイトルどおり、経験のための戦いです。確実性を追求する世界では、経験を通じて得られる知は曖昧なものとして排除されることにリードは警鐘を鳴らしています。西洋的な流れと書きましたが、日本でも同様です。
だから、IAというと、曖昧さや不確実性を悪とみなすのが当然と考えてしまうようにもなるのでしょう。

けれど、リードは、経験とはそもそも曖昧さや不確実性を含んだ知の獲得だと考えます。彼は、この態度をギブソンの理論から受け継いでいます。

知覚に対するギブソンの生態学的アプローチ(これは彼の呼び名である)は、西洋が経験を放棄してきた伝統ときっぱり手を切っている。ギブソンにとって、知覚は世界が引き起こすものではなく、観察者が能動的に追い求め達成するものである。おのおのの観察者は、意味ある情報を捜し出すことによって自らの環境を理解しようとする。

これは単に知というものは主観的なものだということだけを言っているのではありません。生態学的アプローチと呼ばれるとおり、知は観察者が環境に対して能動的に接することで得られる相互依存的なものだと考えられているわけです。ゆえに、観察者が環境に対して能動的に自身を開かず、ただみずからの思い込みでさまざまな判断をしてしまうほうがよほど主観的です。

知は、外から機械的に与えられるものでもなければ、人が主観的に勝手に想像するものでもなく、相互の間で起こる経験を通じて生じるものだというのが、リードやギブソンの考えです。

生理学的な視点でさえも

もちろん、西洋全体が知を機械的なものと考えていたわけではありません。19世紀はじめに世界が機械的であるという見方に区切りをつけた、ゲーテを創始とする生理学的な見方は少なくとも、知を人間の感覚の側の問題として捉えなおしたということができます。

「1820年[代]から1840年代にかけての生理学は、後に専門科学となったときの姿とは随分異なっていた。当時生理学は、公式の制度的身分をまったくもたず、さまざまに異なる学問分野出身の、お互いつながりのない人々の仕事の集積として生まれ始めていた」と、ジョナサン・クレーリーが『観察者の系譜』が書く生理学の芽生えの時期は、ゲーテが視覚の残像の研究を太陽を見る際の残像からはじまり、フェナキスティスコープのような残像実験の器具を生んだ時期でもありました。

また、立体像を見るツールとしてステレオスコープも生まれました。この視覚ツールの影響が当時の絵画を変えたことをクレーリーは指摘しています。

一連の19世紀絵画も、ステレオスコープ映像のこうした特徴のある部分を露わにしている。クールベの『村の娘たち』(1851)は、大いに注目の対象となっているその人物集団や面の不連続な途切れによって、ステレオスコープの寄せ集め的空間を示唆するものだし、『出会い』(1845)における同様の要素もそうである。『皇帝マクシミリアンの処刑』(1867)や『万国博覧会の光景』(1867)といったマネの作品や、そしてまちがいなくスーラの『ラ・グランド・ジャッド島の日曜の午後』(1884-1886)もまた、擬集性を与えられた空間の局所的、離散的な集合としての領域--あるいは、立体感を与えられた深度と、切り抜かれたような平べったの両者--によりピースミールに組み立てられる。

ドラクロワによる、こんな絵もまさに引用中で指摘される「立体感を与えられた深度と、切り抜かれたような平べったの両者」が混在する絵の典型でしょう。

けれど、クレーリー自身も指摘するとおり、これら生理学が明かす人間の感覚の傾向は、個々の感覚の能動的な創造性讃える方には行かず、人間管理のための手段として利用されるようになってしまいます。

だがフェヒナーの方程式のなかでおそらくもっとも重要なのは、[人間主体を]均質化していくその機能だ。それは、知覚行為を営む人々を、管理可能、予測可能で生産的な存在とし、そして何よりも他の合理化の領域と連動するような存在と化すための手段なのである。

この延長にあるのが、結局はエルゴノミクス・デザインだし、HCDなどの考え方も人間中心と言いつつ、ツールをいかにデザインするかという話になってしまいます。

自然と人工物のもつれの中で

けれど、この確実性や曖昧さの排除に向かいがちだったデザインの方向性もすこしずつ変わらざるを得なくなっているのではないかと感じます。
それはこれまでとは異なり、自然物と人工物の境が曖昧になり、互いにもつれあうようになってきたからです。

例えば、MIT media labが進めているようなバイオロジーの分野の研究開発がそうした傾向の1つです。ネリ・オックスマンによる自然のもつ機能を受け継いだ複数の機能を果たす素材とそれを使ったデザインは、従来の工業的な組み立てという概念とは大きく異なります。それは自然が自律的に変化し、それにより環境にも影響を与え、その影響による変化をもう一度、自分が受けて、次の変化のためのチャンスを得るような、周囲との生態系の連鎖に参加することを前提としたデザインです。先の経験の能動性と同じだといっていいでしょう。

IS BIOLOGY THE NEW DIGITAL?」というインタビュー記事にニコラス・ネグロポンテがこんな風に答えています。

都市を建物などの個々の規模で考えるのではなく、全体のシステムとして捉えるようになるでしょう。二酸化炭素を排出するのではなく、抽出できる都市を想像してみてください。雨を下水道に流れるものではなく、電力だと想像してみてください。すべての面がエネルギーを捉えるのです。極端にいうならば、それはゴミや無駄なモノが存在しない世界です。物事はひとつの要素で成り立っているのではなく、いくつもの要素の積み重なりですよね?

こんな生態系として考えられた世界のなかで、人間だけが相変わらず、決まった答えばかり求めて生きる受動的な存在のままいるとしたら、人間だけが「ゴミや無駄なもの」になってしまいそうです。

今後求められるのは、こんな形でデザインの発想をしていくことではないか?
そんな思いもあり、「曖昧さと不確実性」をテーマにいろいろ話題を提供できれば、と思っています。

というわけで、久しぶりに「ですます調」でお送りしてみました。

#IA #デザイン #哲学 #心理学

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