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エピローグ/円城塔

意識を持ち、ほかの存在のことを見ている存在は、何も人間だけではない。
ほかの存在のことを気にして、それらと依存しあい影響しあい、時には排除したり利用したりぞんざいに扱ったりしながら、自分以外の存在とともにありつつ、自分が宇宙の中心であるかのように勘違いしている存在も、人間だけではない。
ほかの動物だろうと、植物だろうと、いや非生物的な存在だろうと、人間と同じように自己中心的にほかの存在のことを考えている。
そんな非人間中心の考え方に興味を持ったのが、2018年後半の2ヶ月あまりだったと思う。そのあたりは、ひとつ前の「四方対象/グレアム・ハーマン」で書いておいたので繰り返さないが、スティーブン・シャヴィロの『モノたちの宇宙』から、こんな引用をしておけば、僕が見ているもののことがすこし伝わるかもしれない。

月は、ぼくらが月について知っている--知らない--ことがらに関わりなく、絶え間なくぼくらに影響を与え、触発し、何らかの効果をおよぼしている。月は、たとえそれが「隠れている」さいにもぼくらに影響を与える。つまり月が人間に全く関与せず、明らかにこちらに向かっていないときも、月はこちらを触発する。月があらかじめぼくらに影響し、変化をおよぼすさいの様々なやり方を事後的にぼくらが認知している場合も--あらゆる場合というわけではないが--おそらく多々あるかもしれない。しかしながら、月が人間におよぼす影響は、ただこういった点に限ることはできない。ゆえに有限性とは、月についてのぼくらの知識には限度(リミット)があるということだけでなく--より重要なことに--ぼくらが月から独立してあるということについても制限(リミット)があることも意味している。言いかえれば、おそらくいかなる対象も他のあらゆる対象から認識論的に「ひきこもって」いるにせよ、諸対象が存在論的かつ美的に互いに隔てられたまま「防火壁の陰にこもっている」ということでは必ずしもない。

互いに認識論的には引き離され、引きこもっているにせよ、存在論的には互いに影響しあっている、何が中心的だということのない存在たちの宇宙。引きこもるのにも限界があるのが、この宇宙。物自体を経験できないとのカントのあまりに人間的すぎる想像はその限界を想像できなかったのだろう。

シャヴィロのこの表現もそれなりにわかりやすいのだけど、そのイメージをより伝えてくれる本に、予想外に年末ぎりぎりで出逢うことができた。
それが今回紹介する円城塔の『エピローグ』だ。

円城塔の小説を読むのは、これがはじめてだ。だから、この作品がどういう位置づけにあるものかは知らない。
でも、単純に言って面白く読めたし、タイムリーに読めたと思った。

タイムリーというのは、この物語がこんな設定のなかで進行しているからだろう。

現実宇宙はOTCの制宙下にあり、人類はスマート・マテリアルの助けなくしては地表に立つことさえも叶わない。少なくとも動物型の知性には無理だ。非知性体や植物型知性、微生物型知性にはまだ、現実宇宙で生存することが可能らしいが、それすらも時間の問題だろうと言われている。

非知性体や微生物型知性というように、「モノたちの宇宙」が描かれる作品。その作品で存在感十分に描かれる(いや、人間的な表現では描けないながら存在感が大きい)のが、OTC=オーバー・チューリング・クリーチャ

人間と共存している「人間よりも器用にチューリング・テストをクリアすることのできるスマート・クリーチャにしてオーバー・チューリング・クリーチャ」。そもそも人間自身が「対話相手に、そう見せたい自分の姿を、交渉の全権代理人としてエージェントをまと」いながら、いくつもの人格、いくつもの身体を用いて生きる世界で、僕らの常識的な「人間像」を超えている。

ようするに、人間を超えた知能をもった存在が存在するシンギュラリティな世界を描いた小説と乱暴に言うこともできる。そんな世界観が描かれる小説。

人間を超えたということは、

人類を退転に追い込んだOTCはアラクネ以上に特定の形態へのこだわりを持たず、現実宇宙においては、あらゆるものがOTCであっても不思議ではない。OTCが生命体なのかどうかを判別する手段は存在しない。そいつが人間型知性であるかどうかを判定するためのチューリング・テストをクリアするOTCは、そいつがただの物質であるかどうかを判定するためのチューリング・テストだってクリアするし、任意のxであるかどうかを判定するためのチューリング・テストをクリアするのもしないのもその日の気分次第にできる存在なのだ。

であり、それが何かはもはや人間には理解することさえできないようなものが存在する世界だ。
自身を超えた存在が存在するとき、人間は自分が世界の中心的な存在ではないと知ると同時に、いままでだって実は、人間だけが自律的に考え、自律的に人生を選択していたわけではなかったことに気づく。

わたしたちからしてみれば、あなたたちはただの自然現象のように見えます。万物と何も変わることのない、感じることのできる物質であるにすぎません。たいていのものがそうであるように、自律していると信じ込んでいる自然現象です。

と、自らを超えた存在に言われるとき、「あらゆる動物や、その他の宇宙の構成要素は、強度的に人間なのであり、潜在的に人間なのである」とアメリカ先住民の世界観を語った『食人の形而上学』のエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロの言葉を思い出す。

こうした世界を記述するのに、人間的な記述の方法では間に合わない。それはテキストによる記述のみならず、数学的な記述においても同じだ。OTCが日々解像度を上げ続ける宇宙においては、数学的な法則もなんら成り立たない。
解像度が高くなりすぎ、「人類の網膜や鼓膜、腹膜や横隔膜といった虚実皮膜は解像度を増していく現実に耐えきれず、インタフェースは過負荷を受けて燃え上がる」ような世界で、人間はその世界に対応するため、「現実に耐え切れるだけの人格の安定保守が不可欠で」「人格は並列的に実行」される。主人公の朝戸などは3000人とすこしに及ぶ人格を「専用の人格管理ソフトウェア」を用いて運用するが、それは「1000人の自分を組織するには、1000人の他人を組織するのと同じ程度の面倒があり」、「社員を倍にして売上を倍にしてみたところで、コストが倍かかっては全く意味がない」というのとほとんど経営課題のような問題を個々人各自が持たざるをえない状況をつくっている。

内部においては、自己同一性を保ちつつも、同時に異なる人格の独立性を維持した管理をどのように行うかという課題を保ちつつ、逆に、同じ課題を抱えるはずの他者に対して、目の前の人物は本当は何者なのか?と問いつつも、常に形を変える可能性をもつ対象を別物として扱うこともまた可能だ。それはまさにある組織に属する個人をその組織とある程度同一視してみるか、組織は置いといて独立した個人としてみるかと似たような問題なので、組織としての同一性自体に関心がなければ、いま目の前に現れているプロフィールそのものとして見ることになる。
けれど、物語においては、どんなに相手の形が変わろうと、相棒や、上司/部下、妻と夫のような関係は維持されるべきで、そこでは内外両方の意味で同一性が必要となる。それは当然、血の繋がりのような系譜にも影響するのだけれど、それは名前のうちに含まれる氏のみで保証できるものかはあやしい。

つまり、この物語の宇宙はそもそも記述上の問題から生じる物語化不可能性を含んでいる。記述できない物語はいかに起動し、いかに記録されうるか。人間の計算能力はもちろん、人間がつくりだすことが可能な計算機の計算能力を桁違いに超えたOTCのつくりだす宇宙の膨大な情報は、量的にも果たしてどのような媒体によって記述可能かという問題がある。

そこで忘却や死という形で、記録容量の削減が行われるということから、この物語は連続殺人という探偵小説世界や、敵と味方に分かれて相手を抹消しようもする宇宙戦争ものの体をなす。だが、そんな人間的な物語の構図があてはまるのも、人間的な見方でみたときだけで、連続殺人はすこしも連続的に見えないし、戦争の行方としての勝ち負けはまったく判断基準が不明確でしかない。

そんな風に非人間的な宇宙で物語は物語は展開していくのかわからないまま展開する。人間的な世界でなら解かれるべき謎も、そもそも人間が理解可能な解などもたず、解とはそもそもある思考のフレームワークのなかで理解可能な説明を見いだすことだということがあらためて非人間的な宇宙という設定のなか、示されるようである。

OTCの理解不能な力で理解を超えた形に変形、更新、改竄、リニューアル、上書きされていく宇宙の様は、まさに最近ひとつのキーワードとしてあがる「人新世」を思い出す。ほかの存在にとっては、人間が行う世界の改変はまさにOTCによる仕業と同じだろう。

まあ、人間を超える存在といったって、実のところ、何も今の今、あわてて登場してきたわけでは実はなく、海だって地震だって気候のへんかそのものだって、とっくに人間を超えていて、だから、崇高なんて概念があるわけだ。そうした非人間的な力や存在を思い出すためにも、この手の想像や思考は必要だ。

2018年の終わりに、これまでの思考のあり方の終わりを告げるエピローグに出会えたことは、実にタイムリーと思える作品だった。おすすめ。

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