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無意味

踏みつぶされ、吐きすてられ、ポイと脇に追いやられる、無意味なガラクタ。
逆からみれば、ガラクタをガラクタにするのは、踏みつぶす、吐きすてる、脇に追いやるという、意味があるかもしれないものを無意味化する操作があるからこそなのかもしれない。もし、そうした操作がなければ、ガラクタは無意味なガラクタではなく、意味を有する何らかの品物だったのかもと想像できる。

昨今の社会にとって意味あるものばかりを生み出そうとする傾向とは真反対の、そういう無意味化の操作は、人間よりも、機械や、自然が得意だ。機械や自然は意味があるかないかなど気にせず、なんらかのものをガラクタにする操作ができる。
一方、人間は意味が気になって冷酷に無意味化の操作ができなかったりする。どんな物事にでも何かにつけて意味を見いだしてしまうのは、人間の悪いくせだ。
人間が無意味化の操作をできないこと自体、ガラクタかもしれないものに意味を付与してしまっているということになるとも思えたりする。それくらい、意味あるものか、無意味なガラクタかの線引きなど、本来曖昧だ。本来、人間が意味のあるものだと思っているものはすべて、無意味化されることを残酷にも阻まれるガラクタかもしれない。

何が意味があって、何が有意義なことなのか? 人間はとにかく、そんなことばかり気にしているが、そのことにそもそも意味があるのだろうか?
どれが意味あるもの、ことなのかと逡巡することが多いけれど、所詮ガラクタかもしれないものを巡って、頭を悩ませること自体、無意味な時間を生成していることにはならないだろうか?
いやいや、その時間を無意味とする考えが浮かぶこと自体、一方に意味のある時間の過ごし方があるかのような錯覚を前提としている。

そんな錯覚でも、自動化された機械的な操作なら、あっさり無効化してくれる。あるいは、自然がもたらす変化であれば。機械がもたらすものであれ、自然がもたらすものであれ、いつ無意味化の操作が行われるかはわからない。人間にとっては、唐突に起こるとしか思えない。そこに操作が行われる必然はない。

そんな話を書いたのが、ひとつ前の「偶然」というnoteだ。
必然の反対としての偶然。
偶然には意味を生み出すセレンディピティな偶然もあるが、もう一方には、意味を破壊する自動機械的な偶然もあると書いた。

そこでも紹介したイヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウスによる『アンフォルム 無形なものの辞典』を今回も参照してみたい。

「岩石の混沌ほど生気なく見えるものはない」というダーウィンの指摘を引用しつつ、スミッソンは地質学的記録を「地図の地滑り」として、不可逆的な冷却化と死のプロセスに関するチャートそしてテクストとして珍重する。それぞれの岩石、それぞれの石層は森林全体、種全体が−−「数百万単位で死んで」−−腐食し、この腐食というプロセスの圧力の下で一種凍り付いた永遠と化したことを示す証拠である。

死の記録としての地質学的石層。この死もある意味、偶然がもたらしたものといえるだろう。その死は突然やってきて、さらなる冷却のプロセスに入り、記録となる。その記録は、腐食という死へのプロセスを経て、証拠としての価値を有するようになる。
そこに興味をしめした人物として、ここで紹介されているのは、アメリカのランドスケープ作家として知られたロバート・スミッソンだ。

スミッソンは、エントロピーにこだわりを持ったアーティストだと言われる。

エントロピーは閉じた系においてはすべてのものは徐々に特徴的な差異を失っていくという物理学的な法則であることはなんとなく知られているが、簡単に言えば、ほっておいて時間がたてばすべてガラクタになるという法則だと言っても良い。エントロピーが大きいほど、無意味というわけだ。

スミッソンはそのことにこだわった。

代表的な作品である「スパイラルジェッティ」は、ユタ州のグレートソルト湖に、6500トンの岩、土砂、塩を使ってつくられた1500フィートの渦巻き状の突堤の形状をした作品だが、この作品もエントロピーと関係している。

ようは、作られた形、物体が作品というより、水の中に沈んで見えなくなったり、バクテリアに分解されていったりという、自然環境による無意味化、ガラクタ化の操作も含めて作品だと捉えると良いのだろう。

そもそも、無意味なガラクタと意味のある芸術作品に明確な差などあるのだろうか。スミッソンが提示しているのは、そういうことなのだろう。
『アンフォルム』の著者らはこう書いている。

スミッソンが引用した古生物学者エドウィン・コルバートは次のように述べている。「化石を収集し整備することから得られる情報が、印刷したページを通じて入手可能なものとならないかぎり、集められた標本は本質的に無意味なガラクタの山である」。スミッソンを魅了したのは「ガラクタ」と「テクスト」のあいだの衝突であったようだ。

死の記録である化石が学者らによって意味を見いだされないかぎり、ガラクタでしかないのは、想像しやすいだろう。しかし、学者がある見方を与えると、ただのゴミ屑のような岩の破片が学問的価値を持ったりする。けれど、当たり前だが、物自体は前後でなんら変化してはいない。学者が意味を付与したことで、ガラクタが価値のある品になる。

逆に、スミッソンの作品は、自然環境による操作により変化していく。
通常の芸術作品であれば、変化は作品としての劣化だが、スミッソンの「スパイラルジェッティ」に関してはエントロピーは同じような意味での劣化ではない。
いったん価値が見出された化石がただの石だったころの野ざらしで劣化から少しも守られていなかった状況から途端に劣化を極力抑えようと保護される状況になるのに対して、スミッソンの作品は保護すること自体、人的に作家の意図を破壊することになるという矛盾めいた仕掛けがそこにはある。

結局、すべてのものは無意味なガラクタでしかない。意味を失うだけでなく物理的にも崩壊するし、死んでいく。モノに限らない。人が行う活動であろうと同様だ。いや、活動は「やった」と思った瞬間には終わるものだから、その活動を誰かが意味をみいだし、記憶にとどめなくては持続する余地すらない。

そんな無意味なものに意味を見いだすのは人間の恣意的な操作によるものでしかない。あらゆるものに元から意味があるなんてことはありえないというよりわけだ。
無意味であることが本来であり、その本来さを明らかにする操作が、バタイユが「アンフォルム」と呼んだものだろう。

隠喩、形象、主題、形態、意味−−何かに類似しているすべてのもの、1つの概念という統一性へとまとめられるすべてのもの−−、これこそ、アンフォルムという操作が踏み潰し、不遜にもポイと脇に押しやるものなのだ。それはまさしく、がらくたである。

隠喩、形象、主題、形態、意味。世界は人間によってこうした人工物にコーティングされたものになっている。
カントは、物自体という概念により、人間がみずからつくりだした人工物のベールのせいで、物自体に近づけないと考えた。このドイツ観念論的な見方と、バタイユの見方は似ているところもあるが、アンフォルムという操作で人工物のベールを剥ぎとりガラクタ性を暴き出そうとする点で大きく異なる。

それはスミッソンの作品がエントロピーによる衰退というガラクタに向かう操作を含んだアンフォルム的なものでありつつも、それを暴くこと自体を作品の価値にしてしまう点で、弁証法的な止揚である。これこそ、バタイユが嫌ったヘーゲル的なものだ。バタイユはアンフォルム的なものを価値とはしない。それはあくまで意味を剥奪しガラクタ化する非人間的操作のまま止まる。それは人間的な意味のあるものではない。

けれど、ひとつ前のnoteでも書いたが、この世界のガラクタ性、無意味性を理解していないと、意味というものの本質はわからないし、意味にとらわれすぎて変化にも対応できないと思う。
まあ、僕自身はそんな有効性の観点からではなく、ただただバタイユ的なものに惹かれてしまうだけなのだけど。

#エッセイ #コラム #意味 #芸術 #アート #人工 #エントロピー


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