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どん底のさらに下で…

本質なるものほど、本質的でないものはないと思う。

答えを固定したがる人間の悪いクセだ。何が本質かなど定まるものではない。何が質的に意味があり、そうでないかはその判断がなされるコンテキストに依るのだし、そもそも、その判断すら時代や文化によっても大きく異なる。それにどれもこれも人間にとっての意味しかない。要は、すこしも「本質的」でなどないわけだ。

乞食でも何か余計なものを持っている

どこまで虚飾を剥がせば、本質が出てくるか?
シェイクスピアの『リア王』には、こんなセリフがある。

リア おお、必要を言うな! 如何に賤しい乞食でも、その取るに足らぬ持物の中に、何か余計なものを持っている。自然が必要とする以外の物を禁じてみるがよい、人間の暮らしは畜生同然のみじめなものとなろう。

財産も領土も分け与えた愛する娘たちに、自分たちに世話になるつもりなら、お供のものを連れてこないでくれ、そんな必要ないのだからと冷たく言われ、リア王の返す言葉である。

余計なものを持っているがゆえに、人間なのだろう。実際、必要を言うリアの娘たちは「もし温かくさえあれば、それで立派な衣装と言えるなら、見ろ、自然はそんなものを必要とはすまい」と言われるほど豪華な衣装に身を包んでいる。バタイユは「人間とは、自然を否定する動物である」と書いたが、それゆえに「自然が必要とする以外の物を禁じて」しまえば、畜生同然にならざるを得ない。

この場合、すべてを投げ打って畜生になるのが本質だろうか。
あるいは冒頭、こんな台詞を始まりとして財産、領土を娘たちに分け与えたリアは本質へと近づこうとしたのだろうか?

リア さあ、銘々言ってみるがよい、娘達、今や権力、領土、煩わしき政の一切を、みずからかなぐり捨てようとしている私だが、お前達のうち、誰が一番この父のことを思うておるか、それが知りたい、最大の贈り物はその者に与えられよう、情においても義においても、それこそ当然の権利と言うべきだ。

いや、財産、領土の見返りに、娘たちの愛を受け取ろうとしたリアはまだ自然に返ろうとはしていない。

哀れな裸の二足獣

リアがより自然に近づくのは、もっと後のシーンだ。

リア 人間は唯これだけのものなのか? この男の事をよく考えてみるがよい。蚕に絹を借りず、獣に皮を、猫に麝香を借りていない。はっ! この3人はどうだ、いずれもごまかしの混ぜ物、貴様だけが正味そのものだ。人間、外から附けた物を剥がしてしまえば、皆、貴様と同じ哀れな裸の二足獣に過ぎぬ。

とうとう娘たちに裏切られ、何もかも失ったという心境で、雨嵐吹き荒れる荒野に飛び出した、リア王が似たような境遇(父や義理の弟に追い出されるという境遇)のエドガーに出会う場面だ。
陰謀の濡れ衣を着せられ、逃げるしかなかったエドガーは隠れて狂人のふりをするため、裸でいる。

それを見てのリアの台詞である。自分はまだ獣ではないことに気づいての言葉だ。

では、リアはまだ人間で、エドガーは獣なのだろうか? そして、裸になったエドガーはリアより本質的なのだろうか。

どん底のさらに底

失うことで、本質に近づくのか?

エドガーの義弟であり、自らの庶子であるエドモンドに騙され、実の息子であるエドガーに在らぬ嫌疑をかけて失い、その上、自らの両眼もリアの娘とその婿の手によって失い、荒野に放り出されたグロスターもまた、失うことをこんな風に受け入れる。

グロスター この俺に行くべき道などあるものか、それなら目は要らぬ、俺は目が見えた時には、よく躓いたものだ。例は幾らもあろう、人間、有るものに頼れば隙が生じる、失えば、かえってそれが強みになるものだ。

確かに、グロスターの場合、目が見えたときは躓いてエドガーを失った。けれど、目を失って、再び、エドガーを得ることになる。

目を失って荒野を彷徨うグロスターに、エドガーは出会う。

エドガー (傍白)ああ、なんという事だ! 誰が言えよう、「俺も今がどん底だ」などと? 確かに今の俺は前にくらべてずっと惨めだ。

と、目を失った父の姿を見てエドガーは言う。
それは自ら追放された境遇より、さらに悪い事態に出会ったからだろうか。裸の二足獣にもまだ捨てさせられるものが残っていたということか。
それなら、まだ「取るに足らぬ持物の中に、何か余計なものを持って」いたエドガーを獣とみたリアの目は節穴だったのか。グロスター同様に。

そうではないことは、エドガーの続く傍白で分かる。

エドガー (傍白)だが、あすからは、もっと惨めになるかもしれぬ、どん底などであるものか、自分から「これがどん底だ」と言っていられる間は。

底まで落ちようとしても、底は果てしなくある。「これがどん底だ」という人間じみた判断を下している間は、どこまで言っても、底としての獣性、自然へとは辿りつくことはない。

臭いある自然を恥と思う

バタイユは『エロティシズムの歴史』でこう書いている。

はたして、われわれの抱く嫌悪ゆえに排泄物が悪臭を発するのか、その悪臭こそわれわれの嫌悪の原因なのか、ということさえ知りえないのである。臭いに関して動物は不快感を示さない。

と。「人間だけが、こうした自然を恥としているように見える」のだ、と。

動物にとっては、どん底も何もない。人間にだけ、どん底がある。それも、いくら転がり落ちても果てしなく底のあるどん底のループが。
そのループはある事実に人間が気づかぬようにしてくれる。自らの恥を忘れさせてくれるのだ。

自分がそこから生まれ、そこを出自としている事情は決して変わらないにもかかわらず、である。これはわれわれには実に顕著に感じ取れる。この人間化された世界を、そこから自然の痕跡までもぬぐい去りながら、われわれは自分に似せて秩序だてた。とりわけ、自分がどのようにして自然から生まれてきたかを想起させる可能性のあるものはすべて、人間化された世界から遠ざけてしまった。

どん底の認識こそが、真に人間がそこから逃げたがる獣への回帰、自然への回帰を避けるための虚飾なのだろう。どん底に落ち続けることで、人間は獣に堕してしまうことから逃げ続けられるのだ。

本質を追うこともそれに似てる。
本質を追い続けることで、本質からどんどんかけ離れていく。

しかし、それでいいのかもしれない。もし、その本質の追求をやめて、ふと振り返れば、想像もし得ないような獣の空無に一気に呑み込まれて帰ってこれなくなるのかもしれないのだから。

もちろん、そんな本質には人間である限り、辿りつけはしないのだけれど。

#コラム #シェイクスピア #本質 #自然

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