貴方も私もクラウドのひとり

言葉に騙されてはいけない。
実はそう思ってる人ほど、騙されていることがある。
言葉なんて騙すもの、確実な定義など望まないほうがよいと思ってるほうがちょうどよい。
というのは、あとでも書くが、それは言葉が対象にする現実の世界の方が常に動き続けているからで、定義をしても状況が変われば言葉のもつ意味が内包的にも外延的にも変わることは免れないからだ。

だから、バズワードの存在もある意味仕方がないものだ。いや、どこから見たらバズワードに見えるのか?をちゃんと考えてみることが大切である。ちょっとその話をベースに、いまの時代における言葉の意味、あるいは意味あることとは?ということを考えてみたい。

さて、大事なことは話題になり、ひとつのワードに注目が集まるが、注目が集まれば多様な状況にある人びとがそれぞれ自分の状況に応じてそのワードを評価するようになる。人それぞれの状況ごとに意味は生じて、結果的に多様な意味が混ざりあうことになるのだから、それを外から客観的にみた際、その言葉が飛び交う周辺全体が曖昧で「バズ」が発生して見えるようになるのはある意味、当然のことではないかと思う。

そのとき、その動向全体を視野に入れることなく、バズワードと見做した言葉を話す人全体をまるで一枚板であるかのように強引にいっしょくたにして、無闇に批判しても仕方がない。だが、バズワードを遠巻きに批判する態度はたいてい、その勘違いのうえに成り立っているように思う。

しかし、現実的には、人それぞれの状況に応じて意味、つまり受け取り方が多様に違うという事態が生じているのに、それを全体的に見た場合のみ、バズ化し見えるといって、何故か個々までを批判してしまう。これはきわめて非論理的だ。全体が曖昧だからといって、その中に含まれる個々までが曖昧とは限らないのだから。そして、そもそも全体なんてものはありもしない。ただ、なんとなく社会というクラウドをそう見てしまっているだけだ。

バズのようにみえる意味も、クラウド(群衆)全体の内にある、個々人それぞれが捉えている意味にひとつひとつ目を向けてみないと、必ずしも、曖昧な噂に惹きつけられているだけかはわからない。案外それぞれが用い方は異なっていて、別々の意味で捉えていたとしても、個々人それぞれにとってはその意味するところは明確であることは少なくないはずである。
だから、それを考えずに全体的な曖昧さだけをみて、その言葉を無意味だとするのはそれこそ意味がない。多様性があるからこそ、それぞれがそれぞれの意味で言葉を捉え、その結果、全体でみると曖昧な概念に思えるからといって、それは何か問題だろうか?
その個々の多様な捉え方と、それを全体でみたときの曖昧さを考慮することなく、ひとつのワードに対して批判的に感じてしまうこと自体、実はその批判の対象であるはずのクラウド全体の曖昧さ以上に目が曇ってしまっているのだといえるだろう。

しかも、そういう批判的な姿勢も所詮は多様なクラウドのなかのひとつの意見=意味でしかないのだ。どんなに自分は客観的に外から批判しているつもりでも、そのありようはバズの内にある個々の意見の差異と違いはない。
だから、結果として批判対象のバズの一部として取り込まれてしまう(いや、最初からバズの一部なのだ)。バズに騙されているかのように見える人と、トポロジー的にはまったくの同値であり、批判することそのものがすでにバズワードと見做す言葉に騙されている証拠になる。

たぶん、インターネット時代の意味論、記号論はそのような観点に立ってみないとまるで意味がないのだ。
それは辞書的な定義が意味をもたない世界で、キーワード検索の結果にあらわれるような有象無象の言説全体がそれぞれのその言葉の意味するものである、そんな新しい意味論の世界である。

だから、僕らが認識しなおすべきは、そんな状況でバズワードを逃れる言葉などありはしないということだ。検索の結果がすべて同じような意味を伝えている言葉など、ひとつもないように。いろんな意見を許容するのがインターネット的な世界ではないか。

その認識の上で、クラウドのなかの言葉について、他人がどうこうなどは一切置いておいて、それぞれが自分自身でその意味を自分自身でどう受けとめ、行動において示すか?ということにしか、これからの意味のある意味というものはないのではないか。

完全言語の探求/ウンベルト・エーコ」でも引用したとおり、

哲学的言語をつくりあげることが不可能なのは、ほかでもない、言語活動というものはまさに観念学者たちがきわめて正確にあとづけたような諸段階をへて生成していくものであり、完全言語が準拠しなければならないのがこれらの段階のうちのどれであるかはいまだに未決であるからである。

という具合に、現実の人びとの活動のなかで言語活動そのものも動き続け、「いまだに未決」を永遠続けるものであるというのが、そもそも言葉と人間の生のすべてとの関係だ。
人間の生活行動、その集合としての社会の動向、それに伴い、言葉(の意味)は常に変化するし、それを扱う人ごとにもひとつそれぞれの生活が違うものであるがゆえに意味するものも違って当然である。そのことが、ごくごく一般の人でも普段生活しているだけでも否応なく見えてしまうのが、インターネットの社会、ソーシャルネットワークの社会である。意味を見える化するメディアが、固定の編纂者がまとめる辞書から、それにアクセスできるクラウド内の誰もが情報編纂者であるインターネットへと変化すれば、意味そのもの、言葉と生との関係が変わっても不思議はない。
だが、結局は言葉と人をつないで、その意味を明らかにするメディアが変化したことでその度合いが見えやすくなっただけで、言葉が人間の生の多様性と深く関連して、常に「未決」であること自体には実は変わりはないのだ。

ようは、もともと言葉はどれもこれも常にバズであり、どの言葉が正しく、誰が正しく言葉を捉えているかなどの絶対的な基準は常になかったということだ。ただ、それがあからさまに見えるようになったのが、バスワードが乱立して見えるようになった理由である。だから、そんなものに目鯨立てるのは、風車を巨人だと思って立ち向かうドン・キホーテのようなものでしかない。それはもはや無意味化した騎士道精神と同じである。

この前提において、言葉を扱うつもりがない限り、この変化が目まぐるしく、その変化に乗らないことが許されない社会において、他者との共同生活を送ることはむずかしいのではないだろうか。
他者との共同生活を送るということは、他人が用いている、自分とは違う言葉の意味を常に受け止めつづけて、それにより自分が変化していくことだと思うからだ。

それは成長ということに他ならないという意味で、ひとつ前の「学ぶのは得意?」という話にもつながっている。

他者が用いる意味を取り込めるからこそ、人は成長する。それは他者の言ってることを鵜呑みにすることではなく、自分とは異なる生を生きる他者がもつ意味を、自分の生に照らした上でちゃんと咀嚼して受け止めるということだ。
その際、他者の異なる意味を、自分の生の中の意味にそぐわないからといって、批判的に拒絶してばかりだと成長の機会は失われてしまう。前回、オープンな姿勢が大事だと書いたのはそういう意味だ。

その意味では、面白いくらい、他者を批判することに意味がなくなった時代だと思う。ここまで明確に他者を批判する手間がまったくの無意味と化して時代というのもなかなかないのではないだろうか?

だから、僕などはリスクを気にしすぎたり、へんに自分のプライドなどにこだわらず、もっと騙されてもいいから、ちゃんと未知の事柄を自分の生をもって立ち向かってみたほうが得だと思っている。自分が正しいと思ってしまうことより、他人の意見に学んで自分の正しくなさに気づいた方が多くのものを得られる

それはそもそもモノを考える際の前提でもある。自分の視点の中だけで考えようとしても大した考えにはならない。はじめから他者の考えをいれられるような立て付けで思考のキャンバスを用意しておくことが大事だ。「思考にはノイズを取り入れて」とか、「考えるの素材」などのnoteで書いたのもそういうことだ。
自分が正しいとか、そういうのは、とにかく捨ててみた方が結果として、正しい方向に近づく近道だと僕は思ってる。

とにかく自分の外側にあるものの意味を否定することではなく、自分にとっての意味を組み立てつづけていくことに時間も力も使っていきたい。

#エッセイ #コラム #言葉 #バズワード #オープン #コミュニケーション #意味 #成長

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Hiroki Tanahashi

言葉とイメージの狭間で

ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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