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古くなったしくみに惑わされない

昨日「中国にボロ負けして400年の衰退へ向かう日本。食い止める術はもう無い」なんて記事を読んだせいもあるかもしれない。あるいは、最近の仕事で未来の社会を考えるために、これから人びとの暮らしや仕事がどう変化するか、社会の状況がどう変わり、それに応じて社会のしくみや人びとの意識、文化や倫理観がどう変わっていくかなどといった事柄を言葉にすることばかりやっているからだろうか。はたまた、単に風邪をひいて、すこし頭がぼんやりしているせいもあるだろう。

ゲーテとの対話』のなかに、ゲーテのこんな言葉を読んだとき、感じるものがあったのは。

これから何年か先に、どんなことが起こるか、予言などできるものではない。だが、そう簡単に平和はこないと思う。世の中というものは、謙虚になれるような代物ではない。お偉方は、権力の濫用をしないではおれないし、大衆は漸進的改良を期待しつつ、ほどほどの状態に満足することができない。かりに人類を完全なものに仕上げることができるものなら、完全な状態というものもまた考えられよう。けれども、世の中の状況というのは、永遠に、あちらへ揺れ、こちらへ揺れ動き、一方が幸せに暮らしているのに、他方は苦しむだろうし、利己主義と嫉みとは、悪霊のようにいつまでも人びとをもてあそぶだろうし、党派の争いも、はてしなくつづくだろう。

1824年2月25日の日付が付された記録のなかでの言葉だ。

これだけ読めば、いつの時代も同じようなものなのかもしれないと思ったかもしれない。実際、そんなような印象がないわけではない。
だが、実はこれを読んで感じたのは、言葉にすれば、同じになるが、明らかにゲーテの時代と僕らの現実における違いの方だった。

書かれたものには現れない相違

欧州列強を巻き込んだ七年戦争、アメリカの独立、フランス革命、それにつづくナポレオンの時代、そして、その英雄の没落まで、この本の著者エッカーマンにこの言葉を語った時75歳であったゲーテはこれらの僕らでさえ多少は知っている歴史的出来事をリアルタイムでみてきている。
その上での、この言葉である。

ダヴィッドが描いたナポレオンの戴冠式のような、歴史的なできごとをリアルタイムでに体験したゲーテは、自分は、あとに生まれてくる人たちとは「全く違った結論や判断に到達した」と言い、あとに生まれてくる「彼らは、例の大事件を、書物を通じて学ぶほかはないし、それでは真実は理解できないのだ」と言っている。
実際、書物を通じてしか、これらの出来事に触れられない僕らは、ゲーテと同じように、こうした出来事を考えることはできない。ただ、それはまた逆も然りだ。ゲーテは僕らがリアルに体験した出来事を書物を通じてすら知りえないのだから。

そこで思うのが、先のゲーテの言葉にあった、お偉方の権力の濫用も、ほどほどで満足しない大衆の謙虚さの欠如も、それだけ見れば、どの時代も変わらないように見えるが、実はそれらを共通点で括ってしまうことには重要な見落としがあるということだ。
というのも、ゲーテ自身も着目したように、本来、それらの貪欲さが働く背景となる社会状況は、書物を通じてでは互いに理解しあえないほど大きく異なっているのだから、その違いに目を向けないのは何か大事な現実性のようなものを無視しているように感じる。特に現実における行動というものを考える際には、歴史を超えて共通するものよりも、歴史を隔てた異なりの方がはるかに重要になる。

だから、ゲーテの時代と同じように、いまも権力の濫用や謙虚さを欠いた言動が生じるにせよ、僕らは僕らの時代の社会において、何故それらが生じるのかということに、もっと目を向ける必要がある。
先のゲーテの指摘のようにわかりやすく時代を超えて受け入れられるような言葉だけで満足してしまうのではなく、それぞれ時代時代によって、はたまた、地域や各人が置かれた状況によっても異なるはずの現状をしっかり認識することを忘れてはいけないと感じたのだ。

つながりすぎた世界における人びとの断絶

ゲーテがこの話をエッカーマンにし始めたきっかけは、ちょうど届いたフランスの新聞に「アングレーム公のひきいるフランス軍のスペイン出征が終わった」という記事があり、それにゲーテが大きな関心を寄せたからだった。
「私は、ブルボン王家がこういう手段をとったことを賞賛せずにはいられないのだ」とゲーテは言っている。ナポレオン退位後の王政復古の時代に、王権側がふたたび軍をひとつに掌握できたことへの評価である。自身もワイマール公国の宰相も務めたことのあるゲーテだ。王権ならびに君主寄りの思想があるのはそのせいかもしれないが、やはり民主主義に慣れた僕らには違和感のある発言ではある。
もちろん後代の僕らはこの王権の復活も5年後にはもはや復活することのない形で終わりを告げることを知っているが、当時のゲーテにそれは知る由もない。

この話をここで持ちだしたのは、ゲーテの時代においてもすでに、ドイツにいながらフランスとスペインの戦争の話を新聞というメディアを通じて知ることが可能であり、ゲーテはそのメディアを通じて、よその国の王権による軍の掌握云々を讃えることができたということである。
当然、それはモバイル&インターネットの僕らの時代の情報が国境を越える速度やその範囲の広さには比べるまでもない。
そして、この「比べるまでもなさ」こそが僕らの時代とゲーテの時代を隔てるものだと思うのだ。

ゲーテはこの日、フランスの新聞が届く前に、こんなことも言っている。

「もしも、精神ともっと高い教養が」と彼はいった、「人々の共通の財産になるようになれば、詩人は、十分に活動できるだろうし、いつも完璧な真実であることができるし、最善のことを言うのに、なにも恐れたりする必要がなくなるだろう。だが、いまは、いつも、ある水準に身を置いていなければならない。詩人は、自分の作品がざっぱくな世の人の手に渡ることを顧慮しなければならない。だから、あからさまに表現して、大勢の善良な人たちの怒りを買わないように注意するのは、もっともな話だ」。

エッカーマンに公にはできない2本の詩を見せた上での言葉だ。

完璧な真実を表現したり、最善のことをいえる詩人の力を制限させるのは、精神ともっと高い教養が人びとの共通財産にはなっていないからである。
それなのに、先の新聞のようなメディアは、住む地域も、身分も、教養や精神の高さも異なる人びとを結びつけてしまう。
だから、ゲーテら詩人は「あからさまに表現して、大勢の善良な人たちの怒りを買わないように注意する」必要がある。

さまざまな詩の形式には、神秘的な、大きな働きがあるのだよ。私の『ローマ悲歌』の内容を、バイロンの『ドン・ジュアン』のような調子と詩形で書き直したら、私のいわんとしたことが、まったく冒瀆的に見えるにちがいない。

というゲーテは、同じ事柄について書くのでも、形式によっても大きく異なる印象を与えることにもちろん気づいている。

そして、ゲーテの時代とは比べるまでもないくらい、世界中の人びとがつながりすぎてしまっている現代、この危機はますます増している。従来なら決して隣同士で居合わせることなどあり得なかった人びと同士がたがいの考えてること、言うこと、やったことが簡単にわかるようになってしまっている。そんな文脈の異なる同士で良い形のコミュニケーションが簡単に成立するはずはない。結果、よくてコミュニケーションの不成立、悪ければ諍いや紛争につながる。

これは単にモバイルやインターネットによってグローバルにつながってしまったという話だけではない。
例えば、別の例で言えば、タワーマンションの下層階と上層階で従来なら同じ建物に住む人同士が大きな意味でひとつ屋根の下に暮らすような状況が設計されてしまうことでも生じることだ。

こうして、見知らぬ人同士を無闇につなげすぎた世界では、むしろ、これまで以上に人びとのあいだの断絶が露わにむき出しになっている。
そして、それは人びとの人生や社会のシステムまで、壊してしまうくらいの影響を及ぼしている。

古い言説に頼らず、現実を見る

デジタル・ディスラプションという言葉で、デジタル技術が既存の産業を破壊的なイノベーションで塗り替えていく様が表現されたりするが、新たなもので古いものが上書きされて一変していくのは何も産業に限ったことではない。

先に書いたように、つながりすぎた世界で起こるコミュニケーションのミスマッチがどれだけ人びとの言動を不自由にし、また、その状況の意味に気づかない人が同士のあいだで不必要な諍いを生んでしまうような状況にしてしまっていることもそのひとつの例だ。

また、これだけ人と人がつながることが容易になれば、人がひとつの組織に固定的に属することは非効率以外のなにものでもない。昨今の副業解禁の話も、そうした側面からも理解する必要がある。
企業側も、個人の側も、古い時代の終身雇用のようなしくみの発想をいつまでも引きずっていたら、組織も発展しないし、日本経済全体の停滞を加速させるだけだ。

ほぼ200年前のゲーテの考えに触れて思うのは、時代の変化とそれに取り残されて、前の時代の言説やしくみに引きずられてしまう人気のことだ。
現実の社会は大きく変わって、もはや、これまで通りのやり方が成り立たなくなっているのに、相変わらず、従来どおりのしくみややり方、ルールや言葉、身振りを変えずに、しかも、それに疑問を感じないまま、人びとは生きることができてしまう。
変化に気づいていないのか、それとも、うすうす気づいていながらも、代替するしくみややり方が提示されないか、されても信用できないから、古いしくみややり方を変えられないのか?
いずれにせよ、新たな環境で機能しなくなった古いしくみに頼っていては、努力をしても好転しないのだから、別の方法を模索するしかない。

かつてなら、待っていれば、誰かが新しいしくみを用意してくれたのかもしれない。これからも確かにそういう部分も残るとは思う。けれど、一方では各自がそれぞれ自分で、ちゃんと現状を認識して、自分でなんとか自分の人生というプロジェクトをデザインし、マネジメントしていかなくてはいけない環境にもなってきているのだと思う。いい意味でも、そうでない意味でも、民主化、セルフサービス化されていく時代のだから。

デザインのための創造力、運用のためのマネジメント力が問われる時代だし、民主化やセルフサービス化が進み、ほっておけば孤立の危機もある時代だからこそ社交性というか、コミュニケーション力もより良く生きるためには求められる力をなのだろう。

そんなとりとめのないことを思いながら、なんとか風邪を今日のうちに治したいと思って、家でおとなしくしてる祝日。

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