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サン・ピエトロ広場の虹の下で

ローマに旅行中。
すでに3日目の夜。

今日はヴァチカンを訪れ、ヴァチカン博物館とサン・ピエトロ大聖堂を見学した。

博物館に行く途中に雨になり、途中、降ったりやんだりした後、サン・ピエトロ大聖堂を見終わって、広場に出たところ、虹が出ていた。

しかも、うっすらだが、二重になった虹。小さな奇跡。

本物の凄み

奇跡といえば、そのサン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロの有名な作品《ピエタ》は凄かった。

先に、ヴァチカン博物館でレプリカを見てしまったせいもあるのかもしれないけど、サン・ピエトロ大聖堂でガラスの仕切りの奥に置かれた本物を目にして、感動したのかなんなのか、しばらく体が動かなくなり、うっすらと涙が出た。
ほんとしばらく動けなかった。動くとぼろぼろ泣いてしまいそうにも思えた。

美術作品をみて、ここまで心が動かされたのははじめてだ。
言葉にならないとはこのことで、何に心が動かされたのかは言葉にできない。
ただ、凄みを感じる造形の美があった。目を離すことができない何かを感じて身動きできなかったし、じっと真正面で見つめていた。

隙がないというのは、あのことだろう。「止まれ、汝は美しい」というルネサンス期のミメーシスの概念がそのまま体現されていたかのようだった。
完璧なフォルムで時間を止める力が本物の芸術家にあるのだろう。ある種の魔術だ。それは大聖堂から出た瞬間の空にちょうどよく虹をかけて見せるのにも似ている。

本物のオーラ

なかでもミケランジェロの彫刻は段違いかもしれない。同じミケランジェロでもシスティーナ礼拝堂でそのすこし前に観たばかりの《最後の審判》ではそこまで心は動かなかったのだから。

サン・ピエトロ大聖堂の彫刻といえば、奥には、いくつかベルニーニの作品がある。中央の祭壇の天蓋もそうだし、《アレクサンドロス7世の墓》もそうだ。

これらベルニーニの作品も、ミケランジェロの《ピエタ》の凄みには達しないものの、他の無名な彫刻群に比べると、抜きにでた存在感を発している。

上の写真の作品などは、ガイドでベルニーニの作品があると知って探したものだけど、そうするきっかけになったのは下の写真の《小壁龕》と呼ばれる作品をみて、「あれ、この作品ってもしかしてベルニーニの作品かな?」と思って調べてみて、やはりそうだとわかった。

ミケランジェロの《ピエタ》が、最も美しい瞬間で時を完璧に止めてみせているかのような印象を与えるとすると、ベルニーニの作品というのは、動きそのものを維持しているかのような奇妙な感じがある。

そういう違いはあれど、よく知られる芸術家の作品にはそういうオーラがある。

魔術としての芸術

それは先にまわったヴァチカン博物館の絵画館での多くの作品のなかでティントレットやグイド・レーニの作品が浮き上がってみえるのと同じだ。

なかでも浮き上がって見えるのはラファエッロの作品だ。
もちろん、ラファエッロの作品はそもそも別格として扱われている。下の写真のように《キリストの変容》を中心に3つのラファエッロの作品は他の作品とは別個に展示されている。

という扱いの別格さはあったとしても《キリストの変容》などは、左右の別のラファエッロ作品と比べてみても凄いと思う。他の作品とは比べるまでもない、圧倒的な完成度を感じる。

それはいわゆる「ラファエッロの間」と呼ばれるフレスコ画群についても同様だ。
前から見たかったラファエッロの《パルナッソス》もようやく本物を見ることができた。ギリシア・デルポイにある神々の住む山、パルナッソス山に神々が集まる様を描いた絵だ。フレスコ画として壁に描かれていて動かせないのだから、自分で見に来るしかない。

この作品は、ラファエッロの作品としてはもっとよく知られる、下の写真の作品《アテナイの学堂》と同じ部屋の別の壁面にある。

つまり、神々が集う《パルナッソス》と、哲人たちが集う《アテナイの学堂》が隣り合う壁面に描かれているわけだ。

この《パルナッソス》について、『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』でポール・バロルスキーがこんなことを書いている。

ルネサンス期には、絵画と宮廷の祝宴の間には種々密接な繋がりがあったのであり、例はすぐ挙げられる。たとえば、アポロ、ムーサ、そして古今の偉大な詩人が登場するラファエッロの《パルナッソス》は、ヴァティカーノ宮殿の「署名の間」の壁上に描かれているわけだが、その位置がブラマンテによってすでに着工されていたベルヴェデーレ宮殿の中庭の劇場に面した壁上というのは、おそらく偶然ではない。つまりそうであってはじめて人々は、《パルナッソス》が描かれた壁の窓越しに、アポロとムーサたちの霊感を糧とする領域たる劇場を目にすることが可能になったのである。

これだけだと何のことやらわからないと思うので、もうすこし説明している他の箇所も続けて引用する。

パリス・デ・グラッシスによれば、ある詩人の桂冠の儀が1512年にベルヴェデーレ宮殿の中庭において、オルフェウスとムーサたちに宰領されながら執り行われたようだが、この式典も《パルナッソス》眼下の中庭の劇場で執り行われたのではないだろうか。こうした宮殿の式典の図像学がラファエッロのフレスコ画のそれと関連するどころか、この祝宴の中心人物たちがラファエッロのフレスコ画の登場人物そっくりの格好をしていたのではないかという気さえする。

フレスコ画が描かれた壁面の窓の外の中庭で、壁画に描かれたものと同じ神々の饗宴の様子が、演劇として俳優たちによって演じられるのを壁画のある部屋から観る。

その二重性は何だろう?と訝しく思うかもしれないが、よくよく考えてみたら、いまも映画やテレビドラマの予告的なものが予告映像としてつくられるぼかりか、ポスターやチラシのような視覚映像として、本編以前に多重化され提供される。その効果とおそらく似たようなものだろう。この人々にイメージや世界観を幾重にも視覚的に埋め込んでいくのは、まさに視覚魔術だとはいえないだろうか?と思う。

しかし、その魔術がどれだけ心を動かすかは、芸術家次第だ。
もちろん、演劇からフレスコ画、映画から予告編やポスターへと、二重化〜多重化するなかで、強度は落ちていく。
《ピエタ》が本物と偽物のあいだでオーラを劣化させるように。

その意味では《パルナッソス》の壁画の先で演じられていた演劇を観たい気持ちになる。
そのくらい、本物そのものを自分の身体を通じてみることの価値は、なかなか実体験しないと気づかないものであるとはいえ、すごく大きなものだと思い。

そんなことをあらためて感じるローマの夜。
(と、ヴァチカンの話をしつつ、タイトル画像はサンタンジェロ城。というのも、今日の虹も出るような雨が降ったりやんだりのローマの空の色は、サンタンジェロ城というある種、畸形的な建物に合うと感じたので)

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