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人間中心主義に関するメモ

前にも紹介したけれど、スティーヴン・シャヴィロの『モノたちの宇宙』という本にこんなことが書かれている。

科学の実験や発見の光に照らしてみても、人間中心主義はますます支持できないものになっている。今やぼくらはこの地球上の他のありとあらゆる生きものとどれほどぼくたちが似ていて緊密に関係しているかを知っているので、自らを他に例のない独自の存在と考えることはできなくなっている。だから、ぼくらは、その境界をとうてい把握しえない宇宙において、コスミックな尺度で生起している様々な過程と、自分たちの利害や経済を切りはなすことはできなくなっている。

この文中に書かれている「人間中心主義」。
なんとなく、その響きやシャヴィロの本での用いられ方、その他最近読んだグレアム・ハーマンやエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロらの本から勝手にどういう主義なのかを想像していたが、昨夜あらためてWikipediaをみてみると、「人間中心主義(にんげんちゅうしんしゅぎ)とは自然環境は人間によって利用されるために存在するという信念のことである」とあった。
そして、説明はさらにこう続く。

自然環境は人間が利用するための存在である、もしくは人間がもっとも進化した存在であるという人間中心主義 (anthropocentrism) は、一般に環境倫理学などの観点から非難された信念であるが、人権思想や人道的立場などから社会工学的信条を批判するためのヒューマニズムの訳語として使われる文脈が存在する。しかしここでは前者についての説明を行う。もともと環境倫理学の人間中心主義についての議論は、ピンショーの自然保護の原則が、人間の経済的利益の確保のために自然を合理的に管理することに焦点があったことに対して、J・ミューアが美的鑑賞の対象としても自然を在るがままの状態に保持しようという形で対立したことにある。一般的には前者の保全conservationが政策的には支持されているが、後者の保護の立場からディープ・エコロジーやガイア理論などの議論が生じ、非人間中心主義の道が模索されるようになった。人類学においては、1920年代まで進化主義や社会進化論の影響のもと人間中心主義が存在したとされる。現在では、深刻な環境問題の顕在化の中で、形而上学的な議論ではなく、「環境プラグマティズム」の主張線上のいわば拡大版人間主義で収斂しつつある。

これらの説明を読んで感じるのは、きわめてキリスト教世界的な発想だなということ。すくなくとも、自然との共生が伝統的に生活にも、思想にも入り込んでいた日本人的感覚からすると「自然環境は人間によって利用されるために存在する」なんてことは思いにくいのではないか。ほっておけば、なんでもカビるし、モノが朽ちていく、しかし、それは同時に自然にとっては成長だったりするような日本の環境においては、そんな身勝手な自然が「人間によって利用されるために存在する」ためにあるようには思えないだろうから。里山なんて生活戦略を採用した国では、上の引用で書かれたような「人間中心主義」は伝統的には発生しえなかっただろう。

同時におもしろいと思ったのは、「人間中心主義」が明確に意識されてきたのが、環境倫理学の分野で非難の対象とされてきた頃からだということ。さらには、1920年代まで人類学においても人間中心主義が存在したということ。
後者は、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロの『食人の形而上学』中のこんな記述と、あわせて考えると面白い。デ・カストロが南アメリカ先住民の他自然主義における、非人間も人間として扱うことについて考察した文章だ。

それゆえ、すべての存在者が、必然的に事実上の人格をもつというわけではないならば、根本的なポイントは、あらゆる動物種や存在のモードがそうであるということを(権利上)妨げるものは何もないということにある。つまり、タクソノミー、分類、「民族-科学」の問題が大事なのではない。あらゆる動物や、その他の宇宙の構成要素は、強度的に人間なのであり、潜在的に人間なのである。なぜなら、それらのうちのいずれも、自らがある人間存在であることを示す(に変容する)ことができるからである。単純な論理的可能性が問題なのではなく、存在論的な潜勢力が問題なのである。「人間であること」そして「パースペクティヴをもつこと」、それは度あい、コンテクスト、立ち位置の問題なのであり、どういった種であるかという際立った固有性が問題なのではない。ある非日常的な存在は、他よりもより完全なやり方でこの潜勢力を現実化するであろうし、さらにそのうちの特定の存在者が、われわれの種がもつ潜勢力よりも優れた強度をもって、その潜勢力を示すであろう。この意味で、それらは人間であるというよりは、「より人間的」な存在なのである。

非人間的な存在は「人間であるというよりは、「より人間的」な存在」である。
ここにおいて、反―人間中心主義的なものは、いわゆる汎心論的なところとも重なってくる。

シャヴィロはこう書く。

心=精神についての哲学におけるこうした議論のことごとくが大事な点を見過ごしている。なぜなら、心=精神のありようはこれらの思想家たちが思っているよりずっとあまねくはるかに広がっているからである。少なくとも、心=精神のありようは「何らかのもの」Something でも「何でもない無」Nothing でもないというホワイトヘッド流の主張とは、そのようなものなのだ。

心あるいは精神というものを「人間中心主義」的に、人間の観点でとらるのは、シャヴィロのいうとおり、狭すぎる。古くは生物学者のユクスキュルが環世界という概念で、すべての動物はその種固有の知覚世界をもち、それに基づき行動しているという考えを提唱した。心というものを人間のそれとしてこだわらずに考えれば、この環世界をもつ、それぞれの種はそれに基づく、それぞれの心をもつと考えてはいけないのだろうか。

だが、同名のSF小説にインスパイアを受けたシャヴィロはこれを非生命的なモノにも拡張して、彼の汎心論的な思いをこのように綴る。

モノたちは互いに美的に遭遇しあうのであって、ただ単に認知的ないし実践的に出会うのではない。ぼくはいつでもあるモノについて現に知る以上に感じるのだし、モノを知るのでないとすれば、感じるのである。ぼくがある対象をまさに知るという点で、ぼくはその対象を使用に供し、その諸性質を数え上げ、また構成要素に分解し、それを規定している諸原因をたどることができる。しかし、ある対象を感受することにはかならずある何かが関わっている。あるモノがぼくを触発し、ぼくを変えようとするさいに、ぼくはそれを感受する。ここでぼくを触発するのは、ただ単にモノのもつこれこれの性質ではなく、そのモノの全体的にして、還元しえない存在である。

こうした汎心論に基づく、反人間中心主義的な世界を考え直してみるのは、おもしろい。
おもしろいというのと同時に、環境倫理的な側面からは、人間中心主義的な考え方に関する見直しはある意味まったなしに迫られている。いわゆるSDGsなんて目標が立てられているのもその流れのひとつ。

「人新世」という新たな地質年代は、思想がどうあろうと、自然がある程度人間に利用された結果のものとして、人間自身の生活にも強いし影響を与えるくらいのものになっていることをしめす明確な指標だともいえる。

人新世(Anthropocene、アントロポセン)という用語は、オゾンホール研究でノーベル賞を受賞した大気化学者パウル・クルッツェンにより、2000年2月に提唱された言葉だ。人類のさまざまな活動は地質学的にも、明らかな影響を地球に与え、それ以前の完新世までとは明らかに異なる地質学的状況を生みだしているとされる。

昨年話題になったホットハウスアースというワードがある。地球の気温が産業革命以前に比べて4-5度上昇するという話だ。それを提唱したストックホルム・レジリエンス・センターのヨハン・ロックストローム所長は、こう語っているという。

今は我々人間がコントロールを握っているが、気温上昇が2度を超えた段階で地球のシステムは友人から敵に変わる。人類の運命は、均衡を乱した地球のシステムに完全に委ねられる。

これは結果として、もはや人間中心主義が成りたくなっていることを明確に示したものと言えるだろう。「地球そのものに委ねる」しかないのだから。

とはいえ、人間中心主義の見直しというのは、単に環境倫理的な部分だけの見直しにはならないだろう。ルネサンスという人文主義における人間中心の文化づくりがそもそも科学的な思考を用意したのだし、フランス革命に象徴される人権の考え方はその後の産業革命における知を含む資産の蓄積による豊かさの増大という人間中心主義を加速させる仕組みを生み出した。そして、ティモシー・モートンが明らかにしてくれているように、19世紀のロマン主義的なエコミメーシスな思想や表現は、産業革命を生みだした商品を消費するのと同様の消費主義により「自然」を美的な距離をもって消費することを可能にした。
こうした広く深い面において、人間中心主義は、文化や経済の仕組み、様々な表現や思考のうちに深く入りこんでいる。

こうしたもの見直しは容易ではない。
でも、それこそ、いま取り組むべき喫緊の課題であるのは間違いないだろう。

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