行動あるところに知性あり

行動から感覚へのフィードバック。
生きていく環境の中で何かを知り、有益な行動とそれに伴う結果を得るためには、行動とそのフィードバックを得ながら仮説を組み立てては検証するというループがまわる必要がある。
その際、わからないことを曖昧なまま残すというのは、この生存戦略からすると馬鹿げた戦略だ。生きることにリスクを残し、チャンスを失っているかもしれないままに、周囲の環境やら、他の人たちとの関係性を拒んでいるということになるのだから。
そんなふうにまわりを見ず、自分しか見ないで、周囲との関係から逃げる選択は自分自身の破滅どころか、自分を含むコミュニティそのものを危機に晒しているのだということを、そうした自分勝手な個体は気づかないのだろう。

そんなことを考えるのは、引き続き、ピーター・ゴドフリー=スミスの『タコの心身問題』を読んでいて、知性の在り処はつまり、そのあたりにあるのではないかと思ったりしているからだ。

大腸菌さえ、まわりを感知し、まわりの他の生物と協調しようとする動きをしていそうだということは前回書いた。その協調可能性が大腸菌のような単細胞生物から、多細胞生物へと移行する際の条件になりそうなことも。
複数の細胞どうしが協調しあえなくては、複数の細胞が1つの生物として成立するわけがない。進化論学者リン・マーギュリスは、複数の異なる生物が共生関係 symbiosis にあって不可分の1つの全体を構成する状態をホロバイオントと名付けたが、そもそも単細胞だった生物が多細胞生物となる時点で、それはホロバイオント以外のなにものでもない。

そして、その多細胞生物がより広く見渡せるようになった世界の環境のなかで、ちゃんと見渡していなくては食うか食われるかのシリアスなリスクが舞い込んできかねない状況になると、周囲との環境のなかで自分を考えることは必須となる。協調だけでなく、競争や捕食の関係が周囲との間に成立する。ある意味、社会やコミュニティが生じはじめたのだといえる。

カンブリア紀には、どの動物も、他の動物にとって環境の重要な一部となる。動物どうしの関わり合い、そして、それに伴う進化、いずれも、結局は動物の行動と、行動に使われる装置の問題ということになる。この時点以降、「心」は他の動物の心とのかかわり合いの中で進化したのだ。

と、ゴドフリー=スミスは書いている。
心という装置はそういう生存するための必然性の中で生じ、進化してきたものだと思うと、それが人間固有のものではないのは当然だと思うし、人間はその心の使い道を、協調であろうと競争であろうと、周囲と自分の関係を考え、かつ利己的なだけでなく、周囲のコミュニティやもっと広いエコシステムの持続可能性ということも含めて、心の利用法を考えられているのか?と疑問がわく。

主観的経験と意識とは異なるものではないかとゴドフリー=スミスは書いている。

主観的経験は、生命の根幹ともいえる現象であり何らかの説明を必要とする。これは人間として生きている事実を自分で経験できるということである。主観的経験を説明するとはつまり、「意識」を説明することだ、と解釈する人もいる。主観的経験と意識を同一視しているわけだ。私自身はそうではない。私は、意識を主観的経験の1つの形態だとは思うが、唯一の形態とは思わない。

意識しなくても、主観的経験をしている部分があるからだ。
意識していることだけが感じていることではないし、人はすべての行動を意識のもとで行なっているわけではない。

むしろ、すべてを意識してたら生きることはままならない。呼吸をすること、歩くこと、そんなものをいちいち意識していたら、むしろまともに呼吸はできないし、歩くことはできない。意識しなくても僕らは障害物を避けられるし、何かを察することもできる。

目から取り入れられた視覚情報に対しては、脳を通り、手や足など身体全体へと送られる非常に複雑な処理がなされるが、この複雑な処理の大半は無意識のうちに行われ、私たちの「何かを見ている」という主観的経験には関わらない。ミルナーとグッデールは、このことが、本書でもすこし前に触れた感覚情報の統合にも関係していると見る。彼らは、視覚経験につながる脳内の活動が行っているのは、首尾一貫した「世界のモデル」をつくることだろうと考えた。この世界のモデルは、きっと主観的経験に影響を与えるはずである。しかし、反対に、そのような世界モデルがなければ、主観的経験はなくなるであろうか。

意識していないところでも、主観的経験は働いている。
感覚と行動のフィードバックのなかで、環境を感知し仮説を立てるというフィードバックループがまわることで働いている。
そのなかで主観的経験は「世界のモデル」のようなものを作るのだろう。
それが仮説の前提条件にもなる。世界のモデルという土台の上で仮説は作られる。それは意識下の主観的経験においてもそうだろうし、意識の上で仮説を組み立てる際でもそうだろう。

これが知性であり、心の働きだとしたら、大事なことは意識上で何を考えるかということではないはずだ。
自分の考えにとらわれている人はたいてい周囲のことが見えておらず、それゆえ、やればいいこと、確認すればいいことを、やったり確認したりせずに環境から置いていかれ、チャンスを失い、リスクを拾う。
本人は知的なつもりかもしれないが、それほど知性からは遠く、心ない姿勢はない。

意識的に考えることはもちろん大事だ。
だが、知性はそこからだけ生じるわけではないことも理解しておくべきではないかと思う。とにかくやってみる、確認しようとしてみることも、意識的に考えること以上に大切だということを忘れてはいけないだろう。行動と感覚のフィードバックループを回しながら、周囲の環境との協調において、良い状況がつくれることを望む。


#サイエンス #生物 #思考 #心 #生きる #意識 #コラム #仕事 #環境


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Hiroki Tanahashi

言葉とイメージの狭間で

ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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