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群れと、組織と、

プロジェクト単位で、毎回結構内容の異なる課題にチャレンジすることになる僕のような仕事をしてると、「一手一手に勝負を賭ける」というのは、比較的普通のことのように思えるが、まあ、たいていの仕事はそうではないだろうというのもわかる。
いや、僕の仕事だって、それなりには計画されているのだから、組織立っていたりもするわけで、そんなにすべてが「賭け」なわけではない。
ただ、「蓄積=資本」があるかというと、初体験ゆえに、それは欠いていることが多い。

樹木とリゾーム

群れや徒党のリーダーは、一手一手に勝負を賭ける、つまり彼は一手打つたびにすべてを新たに賭け直さねばならないのだ。これに対して団体や群衆のリーダーは、獲得したものを統合し、蓄積化=資本化するのである。

個人がバラバラに群れを成しただけの集団の仕事と、組織化された団体の仕事をこのような形で区別してみせるのは、ドゥルーズとガタリの『千のプラトー』だ。

組織化された団体と、そうでない自分勝手な個人が集まった群れ。双方とも、多様なものどもが集まったことに違いないが、ドゥルーズとガタリは、この2つの多様体をこう区別する。

われわれは、樹木状の多様体とリゾーム状の多様体を区別することによって、これとほとんど同じことをしている。マクロな多様体とミクロな多様体。一方には外延的で分割可能でモル状の、統一化可能、全体化可能、組織化可能な、意識的または前意識的な多様体―― そして他方には、リビドー的、無意識的、分子的、強度〔内包〕できない、性質が変化することなしに分割されない粒子からなり、さまざまな距離からなる多様体。

樹木とリゾーム。モルと分子。
面白いのは後者が「変化することなしに分割されない」とされることだろう。
ようは何でできてるのか、正体不明な連中からなる多様体。それがリゾームだとか、分子だとか呼ばれる「一手一手に勝負を賭ける」ことが求められる多様体だ。
もちろん、僕はこちらの方を好む。

団体と群れ

ドゥルーズとガタリは、ブルガリア出身の思想家エリアス・カネッティを参照しながら、全体化されない、組織化されない群れについて、群れのなかの各人について、こう書いている。

カネッティは、群れの中で各人は、他のものたちと共にありながらも、やはり単独であるということを指摘している。1人1人が徒党に加わっていると同時に自分の関心事に集中するのである。

群れの各人は、徒党に加わりつつも、群れの共通目的に従うのではなく、各自が自分の興味関心があることに集中し、それに従う。
むろん、群れや徒党だろうと、集まる意味は必要なのだが、それは偶然集まった同士で共通項を持っていたに過ぎない。申し合わせて、1つの目標に向かうのではなく、賭けられた1手1手がたまたま共振し創発するのだ。

それは組織化された団体に所属する個々人の振る舞いとはまるで違う。
中心的な目的に合わせてそれぞれが自分にあてがわれた役割を全うしようとする組織のそれとはまるで違う。
中心に向かい、個体は全体と同一化しようとする。

この場合、いつも、個体はグループに、グループはリーダーに、リーダーはグループに同一化される。群衆の内部にしっかり拘束されていること、中心に向かうこと、命令にしたがっている場合を除いて決して周縁にとどまったりしないこと。

中心に向かう団体のメンバーと、周縁へといつでも逃走の線を引いている群れの各人。後者はいつでも賭けている。彼らはいつも危険と背中合わせである。

ドゥルーズとガタリがカネッティのこんな文章を引用しているかのように。

「群れが自分たちの火のまわりに円陣を組めば、各人は右と左に隣人たちを持つこともできようが、背後は空いていて、背中は野生の自然に無防備にさらされているのだ」。

群れの中に群衆はあり、群衆のなかに群れはある

さて、リゾーム的な多様体には、中心がなく、分散型であるとされる。
「脱中心化以後のコントロールはいかに作動するのか」というサブタイトルをもつ『プロトコル』で著者のアレクサンダー・R・ギャロウェイは、「インターネットはリゾーム的である」としたあと、こう続ける。

ウェブは一方で、テキストとイメージの転送と表現を統御している、厳正なプロトコルの周辺で構造化されている―― だからウェブは、ドゥルーズとガタリのリゾームのように、「中心を欠いて、階層秩序がなく、何も意味作用をもたないシステム」ではない。

と。
インターネットそのものがリゾーム的な構造化を逃れる性格を持つ一方で、ウェブはプロトコルによって構造化されているがゆえに、中心や階層構造から逃れるものではない。

ギャロウェイは、べつの箇所で「規律=訓練型社会にとってのパノプティコンに対応するのが、管理=制御型社会にとってのプロトコルである」と言っている。近代の中央集権的な社会における制御のしくみが「規律=訓練型」だとした場合に、現代の脱中心化した社会における「管理=制御型」のしくみを成立させるものがプロトコルだ。
そのプロトコルによって構造化されているがゆえに、ウェブはリゾームにはなりきれないという指摘だ。

しかし、ギャロウェイはこうも続ける。

しかしながら、ウェブは他方で、リゾームの鍵となるいくつかの性格を鏡のように映し出しているようにもみえる。その性格とはつまり、どのような接続点も他のいかなる接続点とつながることのできる能力、多数性にかかわる規則、どのような点にあっても分岐して接続する能力、そして「深層構造」の拒絶なのである。

ようするに、リゾームと樹木の2つがあるわけではない。
リゾームではないと思われるウェブのなかにも、リゾームのカギとなるものは映し出されている。
逆も言えることは、ドゥルーズとガタリ自体が示している。

群衆の内部にも群れがあり、そしてその逆もある。樹木はさまざまなリゾーム状の線をそなえているし、反対にリゾームの方もさまざまな樹木状の点をそなえている。乱流状態の粒子を産み出すには、巨大なサイクロトロンがどうして必要でないはずがあろう? 領土性の回路の外で、脱領土化線はどうして指定可能であろうか? 大きな延長においてこそ、またこの延長の内部に生じる大規模な攪乱にかかわってこそ、1つの新たな強度を孕んだ微小な流れが一挙に溢れ出るのではないか?

インターネットがリゾームであると言い切れるなら、こんなに特定の限られた数の巨大なプレイヤーに管理=制御可能な状態になるはずはない。

インターネットとリゾームで、ウェブがそうではないという話をではない。
「群衆の内部にも群れがあり、そしてその逆もある」ように、ウェブのなかにインターネットが、インターネットのなかにウェブがある。

狼は1匹ではない

本当のところは、こんな感じなのだ。

2つの多様体、2つの機械があるのではなく、ただ1つの同じ機械状のアレンジメントがあって、それがすべてを、つまり「複合体」に対応する諸言表の総体を、生産しかつ分配する。

自由に振舞ってるつもりの群れの各人たちは、実は自分たちがそれによって何かの制御に関わっていることを知らずにいるし、団体が中心的目標達成のために用いるコミュニケーションツールが実は周縁に向けて無数の逃走線を引いていることもある。

ギャロウェイは脱中心化されたメディアもまた決して自由を妨げる「操縦」から逃れられないどころか、メディア自体がそもそも操縦にかかわるものであることを次のように指摘する。

「操縦をめぐる命題がもつ暗黙の大前提」は、「純粋な、操縦されていない真理が存在する」ということだ、とエンツェンスベルガーは記している。反対に、エンツェンスベルガーはそのような操縦なしの真理〔があるとすること〕は愚かであると考える。そして、送信それ自体が操縦の可能性を意味しているという程度にまで(「メディアのいかなる使用も操縦を前提とする」)、いうなれば解放されたメディアに関心を持つ人々はすべて、みずからが操縦者であるということを考えるべきだ。この意味において、メディアはそれ自体の本性において「汚れている」。というのも、メディアはまさに批評しようとする行為のなかで、操縦にかかわる支配的なテクノロジーにかかわることを要請するからである。

リゾームか樹木か、群れか組織か、という単純な話ではない。コントロールから逃れているつもりが、何かをコントロールしている側にまわっているなんてことは、このインターネット上では本当によく起こっていることではないか。各人バラバラの群れのつもりがいつの間にか創発が起こって、巨大な組織のうちに巻き込まれてしまって、1つの言葉の中心に向かって収斂していっているということが。

けれど、群れが群れであることを見逃してはならないと思う。1つの組織も群れのように逃走線をもつことを。

ドゥルーズとガタリがフロイトについて、こう書いていることを僕らはちゃんとわかっておくべきだろう。

フロイトは、無意識の観点からさまざまな群れの現象に接近しようとした。だが彼にはよく見えなかった、彼は見ていなかったのだ、無意識それ自体がまず1つの群れであるということを。彼は近視で耳が遠かった―― 数々の群れを1人の人物と取り違えたのだ。分裂症者たちには、反対に鋭い眼と耳がある。彼らは群れのざわめきや勢いをパパの声と取り違えたりはしない。ユングはあるときいくつもの骸骨と髑髏の夢を見た。骨も髑髏も、決して単独で存在することはない。骨の集まりとは1つの多様体なのである。けれども、フロイトは、それが誰かの死を意味すると言い張る。「ユングは、驚いて、いくつもの骸骨があったのであって、1つだけではなかった、と彼に指摘した。だがフロイトは続けた……」。


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