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編集するのが好き

たぶん、編集っていう行為が好きなんだと思う。

「たぶん」と書くのは、自分が思ってる行為がほんとに「編集」って呼んでいいか、ちょっとだけ不安だから。

じゃあ、どんな行為をココで「編集」って呼んでいるかというと、いろんな本で読んだこと、最近見たこと・聞いたことや、これまでの人生での体験で出会った事柄などの断片を編み上げて、ひとつの論、ひとつのストーリー、ひとつの考えに仕立て上げていくことを指している。

生命とは何か?

今日も近々あるハッカソン・イベントの最初のインスピレーション・セッションにあたる部分のプレゼンテーションを考えていたのだけど、そこでも「編集」術を駆使してみた。
keynoteでプレゼンテーション形式でまとめてみたのだけど、こんな本が編集の主な素材だ。

エピローグ/円城塔
バナナ剥きには最適の日々/円城塔
変身物語/オウィディウス
地球外生命と人類の未来/アダム・フランク
タコの心身問題/ピーター・ゴドフリー=スミス
あなたの体は9割が細菌/アランナ・コリン
セレンゲティ・ルール/ショーン・B.キャロル
自然なきエコロジー/ティモシー・モートン

こうした本からの引用に加え、いくつかの美術作品やYouTubeからの動画が編集ネタになる。

リストを見たとおり、まあ、内容的には日々ここに書いていることの延長だ。

『エピローグ』のこの辺りの記述を皮切りに、

人類を退転に追い込んだOTCはアラクネ以上に特定の形態へのこだわりを持たず、現実宇宙においては、あらゆるものがOTCであっても不思議ではない。OTCが生命体なのかどうかを判別する手段は存在しない。そいつが人間型知性であるかどうかを判定するためのチューリング・テストをクリアするOTCは、そいつがただの物質であるかどうかを判定するためのチューリング・テストだってクリアするし、任意のxであるかどうかを判定するためのチューリング・テストをクリアするのもしないのもその日の気分次第にできる存在なのだ。

『タコの心身問題』にある、こんな記述は、まさに『エピローグ』におけるアラクネやOTCのようだ。

タコの身体には決まった形というものがなく、変幻自在だ。可能性の塊だと言ってもいい。決まった形を持ち、行動をある程度決定する身体を持つと、そのためのコストが発生する一方で、利益も得られるが、タコにはどちらもないということになる。多くの動物では、脳と身体が明確に分かれるが、タコはその区別とは関係のない世界に生きている。

タコというのはなんとも地球外生命じみている。

そこは『バナナ剥きには最適の日々』での人格を持った無人地球外生命探査機のこんなつぶやきが拾う。

2つには、宇宙人とかいようがいまいが、どうでも良いのじゃないかって話。そこには、宇宙人って一体何かというのが全然わからないという事情がある。何をみつければそれを宇宙人そのものだと、あるいは宇宙人がいる証拠と考えてよろしいのか。

これを受けるのは当然、『地球外生命と人類の未来』。

高度な文化をもった生命は持続可能か?

そこから、こんな記述を引く。

2015年までに、ケプラーと他の方法を合わせて、天文学者が詳しく調査できる1800の新たな世界が発見されていた。系外惑星の一覧が長くなるにつれ、最初に最初のもっとも重要な結論として、他の太陽系の構造が、私たちのものとはまったく異なり得るという認識が得られるようになった。

もちろん、惑星の数を気にするのは、「我々の銀河系に存在し人類とコンタクトする可能性のある地球外文明の数」を推定するドレイクの方程式の3つめのパラメータがそれだからで、いまや、生命の存在が可能となる状態=ゴルディロックスゾーンにある惑星は、100億×1兆個存在すると推定されているにもかかわらず、いまだに僕ら地球人は、『バナナ剥きには最適の日々』での人格を持った無人地球外生命探査機同様に、誰一人として宇宙人らしきものに会わずにいる。

これはもしかしたら、

宇宙は、長期にわたって持続可能な技術文明を生まないのかもしれない。宇宙の全歴史を通じて存在してきたあらゆる系外惑星を対象にしても、そのような文明はうまれなかったのかもしれない。

とも考えられるわけで、すぐさま人新世の危機的状況に想像が及ぶ。

とはいえ、生物が自分たち自身さえ危険に晒すほど、地球環境を変えてしまったことは、なにも人間が最初ではない。
25億年前に、突如誕生した水を使って光合成を行う「シアノバクテリアの活動によって、非常に大量の酸素が海洋や大気に投棄されたために」、それまでほとんど酸素がなかった地球は「わずか数億年のあいだに大気の酸素濃度は100万倍に上昇」。それまでいた微生物にとって酸素は毒だったから、ほとんどは死滅して、一部が「イエローストーン国立公園の悪臭のする硫黄に満ちた穴や、私たちの胃のなかのような場所で」酸素から逃れて生きる方法を選んだ。

このGOE(大酸化イベント)と呼ばれる変化は、「地球を変えることが、当の変化を引き起こした生物にとってよい結果につながるとは限らないことをも教えてくれる」。
人間が自分たちの行為によって、自分たちの生きる環境を変えてしまって、その結果、自分たちを地球の表面では生きられなくなったって、それは『エピローグ』で描かれる、

現実宇宙はOTCの制宙下にあり、人類はスマート・マテリアルの助けなくしては地表に立つことさえも叶わない。少なくとも動物型の知性には無理だ。非知性体や植物型知性、微生物型知性にはまだ、現実宇宙で生存することが可能らしいが、それすらも時間の問題だろうと言われている。

という状況も同じだ。

生死をともにする者/モノたち

ようするに、大気学者のジェームズ・ラブロックと進化生物学者のリン・マーギュリスの唱えたガイア理論のとおり、地球はある意味、生死をともにする、ひとつの生命体である。

そのリン・マーギュリスが唱えたもう一つの概念が複数の生物が1つの複合的に生命体として生きるホロビオントだ。

あなたの体のうち、ヒトの部分は10%しかない。あなたが「自分の体」と呼んでいる容器を構成している細胞1個につき、そこに乗っかっているヒッチハイカーの細胞は9個ある。あなたという存在には、血と肉と筋肉と骨、脳と皮膚だけでなく、細菌と菌類が含まれている。あなたの身体はあなたのものである以上に、微生物のものでもあるのだ。

と『あなたの体は9割が細菌』で示されるとおり、人間もまた典型的なホロビオントだ。その体内にはGOEで逃げ込んだ酸素が苦手な微生物もいる。

トキソプラズマ症という病気がある。この病気にかかってる人は、全世界の3分の1に及ぶ。それなのに健康に影響がないように思えるのは、妊婦などを除いて健康に影響を与えないからだ。
だが、トキソプラズマ症は体調には影響を与えない代わりに性格を変える。男性はマイナスに、女性はプラスの変化があるという。

心も体も共生微生物の影響を受けているとすると、私の自由意志や成功は、どこまで私のものなのだろう。人間らしい、私らしいという時の「らしさ」の範囲は? トキソプラズマその他、体内に棲む微生物が宿主の感情や行動や意思決定を操っているという考えは、正直言って心地よいものではない。

微生物が人間の心も体も調整したりしてくれているのと同様、生態系そのものも様々な生物がかかわりあって、ひとつのホロビオントとなっている。

キーストーン種として

先の酸素嫌いの微生物のもう一つの逃亡先である、イエローストーン国立公園では、1930年くらいから20世紀の後半にかけて、環境の破壊が進んでいた。
けれど、それが絶滅していた1つの種をほんの少しだけ、外から導入してあげることで劇的な再生が見られたのだ。

サンプルの分析結果は2人を驚かせた。ほぼすべての木は樹齢70年を超えており、85%は1871年から1920年のあいだに成熟していた。1921年以後に育った木は5%にすぎなかった。ポプラは、種子を撒くのではなく、若芽を送り出すことで再生する。ところが、若芽の成長が何かによって妨げられているらしかった。リプルとラーセンは、手がかりは樹木の年齢分析にあると考えた。なぜポプラは、1920年までは再生できたのに、以後はできなくなったのか? 2人は、エルクが高品質のエサになるポプラを食べ、冬季にはポプラがエルクの食物構成の60%を占めることを、また、オオカミがエルクを捕食することを知っいた。イエローストーンではオオカミは1920年代に絶滅している。

オオカミがエルクを減らし、エルクに食べられていた植生が戻り、鳥が戻り、ビーバーが戻り、魚が戻り、さらには植生が回復したことで土壌が安定し、川の流れも回復したのだ。

生態系におけるキーストン種であるオオカミの再導入により、自然が元からもつ調整機能が回復した例だ。

ロバート・ペインが警告するように、「人類が環境を過剰に支配するキーストン種であることについては疑問の余地がない。その人類がルールを理解せず、世界中の生態系を破壊し続ければ、このキーストン種はやがて自滅するだろう」。人類を調節できる生物種は、今や人類をおいて他にはない。

ただし、この調整の回復は決して、本来を戻す作業とはならないのだろう。何が本来的で、何がそうではないという話をしどしたら、またしても人間の勝手な合目的な議論になってしまう。

そうではなく、『自然なきエコロジー』で描かれるような、こんな態度こそが必要なのだ。

『フランケンシュタイン』が示す前兆は、ディープエコロジーの反対物である。なすべき課題は、不快で不活性で無意味なものを愛することである。エコロジカルな政治は、エコロジカルなものについての私たちの視野を、たえまなくそして容赦なく再設定しなくてはならない。昨日は「外側」であったものが今日には「内側」のものになるだろう。私たちは奇怪なものと同一化する。私たち自身が、ガラクタの小片と細片でみすぼらしくつくられている。もっとも倫理的な行為は、他者をまさにその人工性において愛することであって、その自然さや本来性を証明しようとすることではない。

こうして、編集してつなげてみると、なぜショーン・B.キャロルが『セレンゲティ・ルール』で、

20世紀の標語が「医療による生活向上」であったとすれば、21世紀の標語は「環境保全による生活向上」というものになろう。

と書かなくてはならなかったか、あらためてわかる。
編集するということは、自分で「わかる」筋道をつけることだと思う。

そう。こんな編集を今日はした。
何のために、こんな編集をしてるかは、近々発表できるはずた。


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