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周囲への気配り(=外部へリソースを配分する)

僕が働くロフトワークという会社には、半期に一度、他の人に自分の良いところを褒めてもらう360°レビューという仕組みがある。

一度に3人から5人程度、レビュアーを指名し、指名された側は相手の良い点をちゃんと言語化して伝えてあげるというものだ。

他人への好評価を言葉にする楽しさ

いつもいっしょに仕事をしていてもなかなか日常的には言語化しないようなところにまで言及してもらえることが多いので、レビューしてもらった側はとにかくうれしくなる、がんばってきてよかったという気持ちになりやすい。
そんなところまでちゃんと見てくれていたんだと思えたり、僕のような歳になると若手がちゃんと努力して自ら成長しようとしてるんだということにもあらためて気づけて嬉しくなる。

レビューを書くこと自体も、僕は楽しい。

あらためて、いっしょに仕事をしている人の良いところを言語化することを通して、あらためて認識しなおしていくことになるプロセスがそこで動く。
そのプロセスが動くのを書きながら楽しく感じている。

しかも、そうやって書きながら、やっぱりあの人すごいと感じて、そういう人と仕事できていて良かったなとポジティブになったりもできる。

他人の良い点を言葉にするというのはそういう意味で、書く側にもプラスになるし、書く側の内面を豊かにするものだと思う。

周囲への気配りは、気を配る側にも利点がある

そういう意味で、レビューする側にもメリットが多いのが、この360°レビューというという制度のよいところ。

今回僕がレビューしたうちの2人がすごくホスピタリティ、他人や周囲の環境への細かい気配りに長けた人だったのだけど、それがどういうことでどんな良い点があるのかを言語化することを通じて、あらためて「日常的にまわりに気配りをする」ということについて考える機会にもなったのが良かった。

他人を評価することが評価をする側にも気づきがあるように、まわりに気を配ることも同じように気を配られる側だけでなく配る側にもいろんな利点がある。
まわりに気を配ることに関する、気を配る川の利点についてはすでに1つ前の「質より量」でも書いたが、ここでももうすこし書いておきたい。

その利点とはずばり、自分の内面的な豊かさが実利的な面でもメンタル的な面でも得られるということだ。
どんな豊かさが得られるか、どうやって豊かになるかをこのあと書いていきたい。

ホスピタリティと外部へのリソース配分

周囲に気を配って、周りの人やその環境自体が心地よくスムーズに楽しく物事が運ぶようにすること。
それを、僕はここで「ホスピタリティ」と呼んでいるのだけど、この周囲への気配りって、つまりは、自分の思考のリソースをまわりの人たちやそれと関連した周囲の環境について観て考えることにどう配分するのかという問題に当然つながっている。

言い換えると、日常的に(日々、常にいつでもという意味だ)どれだけ、客観的にみた自分も含めて周囲の環境に存在するもののことを鳥の目、虫の目の両方でみているか、見て感じたことをふまえてどうすれば全体的かつ個別的に人々が気持ちよく物事が運べるようになるかということを考えているか、いないか、あるいはどの程度の自分のリソースをそれを考えるのに費やしているかということにホスピタリティというものは関わっているのだと思う。

その見方も単に「いま」とか、「次に」とかいう比較的狭い時間的視野の範囲でのみ見るのではなく、まわりの人のたちの成長(あるいは衰退)といった中長期的な観点も含めて考えられているかということも含められると、さらにホスピタリティの度合いは高まる。

そういう視野で物事を見て、まわりが良い状況になるよう自分の行動を決めて動けることがホスピタリティ的な姿勢だと僕は思っている。

共生の戦略のためのホスピタリティ

ようは、利他的だ。
利己的ではないというのとは違う。
利己的な思考はあっていいし、ただ同時に利他的な思考もできるか?という話だ。
そして、利他的な行動選択が結果的には利己的にみても良い結果になることがわかっての行動がホスピタリティの姿勢にはある。

ホスピタリティのその利他的な姿勢は、いわば共生の戦略のために有効な姿勢なんだと思う。
だから利他的に他者やまわりに配慮する人が、結局、自分の内面的にも利点があるのはなかば当たり前なことでもある。共生を前提にまわりも自分も良い状態を最初から目指しているのだから、まわりを良くすることはそのまま自分の良い結果に返ってくる

ホロビオオントとホスピタリティ

僕が著名な生物学者のリン・マーギュリスがホロビオント(ホロバイオント)と呼んだ異なる生物間が共生している状態を1つの単位としてみる考え方が好きな理由と同じだ。
アランナ・コリンが『あなたの体は9割が細菌』で、共生する環境のなかでともに依存しあうホロバイオントを構成する生物群がたがいに良い状態を選べるかどうかが、自然選択に有利となり、環境変化にも適応していくという話を次のように紹介している。

共に依存し、共に進化するホロバイオントの概念は、イスラエルのテルアヴィヴ大学のユージーン・ローゼンバーグとイラナ・ローゼンバーグに、自然選択が働くもう1つの場面を思いつかせた。繁殖の有利さのために個体や集団が選ばれるだけでなく、ホロバイオントも選ばれるというのだ。マイクロバイオータを切り離して生きていける動物はいないし、宿主なしに生きていけるマイクロバイオータもない。どちらか一方だけを選択するのは不可能だ。つまり、自然選択は両方に働き、個体を選ぶのと同じように乗り物と乗客の組み合わせを選ぶ。選ばれるのは生存と繁殖を成功させるのに充分な強さと適性、適応力を備えた「組み合わせ」だ。

ホスピタリティを発揮して、まわりの人や環境の状態も良くしていくことで、その共生環境そのものが良い状態となり、すごしやすく、幸福な状態になる。それは単純に利他的な行動というだけではなく、それ自体が利己的な行動なのだと僕には思える。

周りへの配慮は自分自身の感度を高める

そして、まわりへの気配りをすることが内面を豊かにするもう1つの理由は、それこそ1つ前の「質より量」で書いた、次のような点だと思う。

まわりを気遣う、自分もまわりの状況を常によくしよう、という配慮をつねに持つこと、そういう観点で周囲の動きに目を向けること。
そこで感じた配慮の必要性を実際に行動として実行すれば、その配慮が正しかったかを確認する頻度も増えるし、そこを通して自分の配慮の感度も高まっていく。

そう。周囲に気を配ることを日々常に行い続けていくと、自分自身の感度が高まっていくのだ。

それはまさに量の積み重ねが結果的に質の向上につながるという、典型的な例だ。世の中的に経験がものをいうとされるのは、この日々の量が感度を高めることにつながるからにほかならない。

最初に紹介した360°レビューでも同じだ。
日々、まわりの人のことを見ていれば、レビューを書くときにあらためてゼロから考えることなどなくて、いろいろほめたいところを整理して、どうそれを表現するとよいかだけを考えればよい。
けれど、日々、そうやって周囲に気を配って、相手との関係やその人の将来などにも配慮してあげられてなければ、さてレビューを書かなくなった時点で困るだろう。

ようは感度も高められていないし、良い点を見つけられてもいないのだから、ホスピタリティがあるのとはまさに真逆の状態だ。
それでは自分も成長しないし、まわりの環境が良くなる流れにも参加できていないことになる。

多数の小さな気配りが系全体を改良する

ホスピタリティというのは、結局、まわりの環境を良くするため、マイクロ・リデザインを常時行って状況を好転させていくという、きわめてデザイン的な思考・姿勢にほかならない。

もちろん、前に紹介した、エイドリアン・ベジャンが『流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則』がこんな風に書いているように、すべての状況の好転がホスピタリティ的マイクロ・リデザインによって可能になるとも思わない。

確かに「少数の大きなもの」といえるような大規模なリデザイン行為も時には必要だ。

物理学の全体像の中では、少数の大きなものと多数の小さなものがいっしょに流れ、協働し、ともに進化する。少数の大きなものは多数の小さなものを排除しないし、排除できない。そのバランスのとれた多様なスケールのデザインは、ますます良くなって、流動系全体が改良される。

けれど、同時に「多数の小さなもの」もやはり欠かせないのだ。
「バランスのとれた多様なスケールのデザイン」が不可欠であり、大きな変更と同時に日々のホスピタリティによる小さな無数の改善が、その環境の系全体を良い流れにもっていく。

こんな観点からみると、いかに日々の行動や思考の量の積み重ねが大事なことがあらためてわかるし、ホロビオオント的共生の視点でまわりにも配慮しながら、ともに良い状態を目指すホスピタリティの必要性もあらためて理解できる。

と、まあ、こんな気付きも得るきっかけを与えてくれるという点でも、僕は360°レビューというしくみを気に入っている。

そんなしくみのあるロフトワークに興味をもってくれた方はこちらをどうぞ。

笑。


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