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スケープゴートとのアウフヘーベン

自分と異なる意見や価値観をもつ人びとのことをリスペクトし、受け入れられることができるだろうか。
つまり、止揚(アウフヘーベン)し、他者の考えも取り入れた、自分のみで考えること以上の考えを自分と他者のあいだで創出する技術と姿勢を有しているのか。

そうした観点からあらためて、ティモシー・モートンがこのように書く意味を別の角度から捉えてみたい。

昨日は「外側」であったものが今日には「内側」のものになるだろう。私たちは奇怪なものと同一化する。

外側にあったものが内側になる。
自分とは異質だと感じる奇怪なものと同一化する。
これこそ、まさにアウフヘーベンだ。

自然なんてものはない

上の引用は、モートンの『自然なきエコロジー』からのものだが、その前には、こんな文章が置かれている。

『フランケンシュタイン』が示す前兆は、ディープエコロジーの反対物である。なすべき課題は、不快で不活性で無意味なものを愛することである。エコロジカルな政治は、エコロジカルなものについての私たちの視野を、たえまなくそして容赦なく再設定しなくてはならない。

「私たちの視野を、たえまなくそして容赦なく再設定」するということ。
モートンがここでいうのは美しいものばかりを見たいがために、目を背けてきたものも受け入れるような視野角の設定の必要性だ。いいとこばかり見るのではなく、受け入れにくいところも含めて受け入れられるかどうかだ。

それが今後のエコロジーについて考えるためには必要だという話なのだが、この再設定のモティーフとして、ここで選ばれているのが、フランケンシュタインという存在だ。

フランケンシュタインは、ディープエコロジーとは正反対のものだとモートンはいう。

正反対のものとされる、1970年代にノルウェーの哲学者アルネ・ネスが提唱したディープエコロジーは、従来の人間にとって合目的な環境保全のあり方に対して「すべての生命存在は、人間と同等の価値を持つため人間が生命の固有価値を侵害することは許されない」という非人間中心主義的な姿勢を(一見)示す『ように見える)ものだ。

この一見立派にみえる考えの前提に、「自然と人間」という、ブルーノ・ラトゥールが近代の「憲法」として、両者(自然と人間)の擬似的な対立をうみだす純化作用の存在を指摘した、それこそきわめて「人間中心的な」視点を下敷として存在している。

ディープエコロジーが「すべての生命存在」とする自然は、あくまで人間が純化して自分たち自身や文化から切り離して理想化したものにすぎない。それは人間から見た「美しい自然」の理想像だ。

ラトゥールの影響を強く受けるモートンが、「自然なきエコロジー」を唱うのは、この「自然」がまさに上図のような近代「憲法」の作用の下に生み出された、人工的な自然だからにほかならない。
それは18世紀後半以降の(まさに物自体への経験的接近の不可能性を説いたカントを皮切りとした)ロマン主義的な自然観とそのレトリックによって、自然は人間に汚されることのない純粋なものとして、人間の手によって無菌室に入れられている。

それは人間には届かない存在だというのだが、何のことはない、そんなものは現実に存在しないのだから、元より触れられるはずがないというだけだ。

神様と魔王を分解する

結局、見落とされ、無下にされているのは、現実の自然環境だ。
理想の姿と異なる本物の自然はいまや人工物と入り混じって、純粋な自然の姿などは残していない。そうであるがゆえに、人は環境への配慮に欠けたままで、まさに自分の家をゴミだらけに、自分の身体を汚物まみれにし続けつつ、汚れてない姿だけを自撮りして満足げ。

だから、ディープエコロジーの「人間が生命の固有価値を侵害することは許されない」という態度は、あまりに自然を理想化しすぎることで、端から人間の環境への関与そのものを否定してしまっているというだけの話で、ただの苦行僧のような態度を望むが、そんな穢れのない場所も身体ももはや、というか、端から存在しない。あるのは、もっと穢れも、人工物も、微生物も入り混じったハイブリッドなフランケンシュタインだ。「もしも毒まみれの森に話すことができたら、それはフランケンシュタインの怪物のように聞こえるかもしれない」と書くモートンの言い分には納得感しかない。

人間の手付かずの自然などというものは元よりない。
ラトゥールが先の図の純化とは異なる下半分で「翻訳」として示した自然も人工もネットワーク上のつながりによってごちゃ混ぜになった「ハイブリッド」な状態こそ、現実だ。

互いに異なる自然と人間的なものをアウフヘーベンしなきゃいけないどころか、本来は元から止揚されているのだ。ヘーゲルがわざわざアウフヘーベンなんてものを用いて弁証法を確立しなくてはいけなかったのも、この「翻訳」のごちゃ混ぜ状態に見ないふりをしていたからにすぎない。本来は混ざっていたものを、わざわざ分けたのだ。

それぞれが自分が主張したいことを純度高く混ざり気のないものに見せるために。
わかりにくいものや矛盾して見えるようなものは取り除きたい。
神様がピッコロ大魔王を外部化したようなものだ。

スケープゴートをつくらない

「不快で不活性で無意味なものを愛する」代わりに、それを予め人間の側から除去して、さらに自然そのものも浄めて「美しい自然」のような作り物に変えてしまっているから、両者が交わることが双方にとって穢れのように思えてしまう。

そうではない、そういうことではない。
フランケンシュタインがつぎはぎでできているように、僕らも自然も元より
ハイブリッドなつぎはぎの存在だ。

あらゆる行為や存在は、きれいであると同時にきたないし、善であると同時に悪である。
それを自分の行為だけを正当化しようとするから、外にあたかも正反対の否定すべき悪を置かなくてはいけなくなる。

ようはスケープゴートだ。
自分を良く見せたいがゆえに、外にダメなものを置いて非難する。他人を受け入れられない理由は、相手が受け入れられないものを持っているからではなく、自分がそれを手にしたくなくて、それを手にしない自分を褒めてもらいたいからだ。
いったい、どれだけ承認欲求が高いのだろう。

そういう姿勢の人ほど、理想が外から明確な形で示されることを求めてしまう。それも承認欲求の延長だ。
だから、求めた結果、示されたものが、自分が求めていたものと違うと、受け入れられないし、提示した人を「わかってない」と非難する。そうすることでしか、自分たちの「美しい魂」を認められないからなのだろうか。何故、そんなに自分を責めつつ、外に八つ当たりして、自分を甘やかすのだろう。

他者をその人工性において愛する

だから本当に必要なのはアウフヘーベンすることではない。
元からアウフヘーベンされた状態にあったものを自分(たち)を浄化するためだけに、余分だと思うものを切り離した結果、亀裂が生じているように見えているだけだということを認めることだ。

昨日は「外側」であったものが今日には「内側」のものになるというよりも、本来はそもそもすべてが「内側」にあったのだ。

そう。モートンの先の文章のあとには、次のような指摘が続く。
僕らがいかにフランケンシュタインであるかということの指摘が……。

私たち自身が、ガラクタの小片と細片でみすぼらしくつくられている。もっとも倫理的な行為は、他者をまさにその人工性において愛することであって、その自然さや本来性を証明しようとすることではない。

理想だとか、本来の純粋な姿だとか、そんなものを求めることが、そもそも方針として間違っているのだ。

相手がどんなおかしなことをしていようと、その現実にそうしている、そのままの状態をまずは受け入れることから始めることが必要だ。
あなたがどう思おうと相手はその今の姿を選んでいるのだから。
しかも、おそらく、その選択の何%かはそもそも、あなた自身の影響もあるのだから。

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