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ローマ百景Ⅱ/マリオ・プラーツ

最近、オードリー・ヘップバーン主演の『ローマの休日』をはじめて、ちゃんと観た。もちろん、このマリオ・プラーツの『ローマ百景』前回紹介したに続いて、このを読んでいたからだ。

1967年に刊行されたⅠに続く『ローマ百景Ⅱ』は、1957年に書かれた「ローマの至宝の芸術」から、1976年に書かれた「ヴィッラとカステッロ」までの『イル・ジョルナーレ・ヌォーヴォ』紙などに掲載された書評を集めて1977年に刊行されたものだ。ようは書評を集めた本の書評を、僕はここでしようとしていることになる。

1940年代に書かれた書評も掲載されていたⅠに比べると、まだ穏やかになっているが、変わりゆくローマに様子を哀しみとともに語るものが多い(Ⅰでのプラーツの言葉を借りれば「ローマに対して私は重病人の枕元に立ち会う動揺した証人の立場にあった」)。

プラーツがそんな風に嘆くローマの変容というものを、本に載っている写真以外でも確認してみたかったこともあり、『ローマの休日』を観ようと思ったのだ。

1953年の休日のローマ

1953年に封切られたヘップバーンの映画のローマは、プラーツがこの本で嘆くような大量に出現した車によって台無しになったローマではまだギリギリなかった。映画でも自動車は走っているが、その数は少なく、ローマの街もまだがらんとした印象がある。


冒頭から19分くらい過ぎたあたりで、ヘップバーンとグレゴリー・ペックが凱旋門の前で出会うシーンなど、夜だとはいえ、完全に人気のいない田舎街の光景である。それは次の日になって、ヘップバーンがローマの街に繰り出していく(上のムービーで55分くらい以降)になっても、人の数は増えても、プラーツが嘆く車の洪水はあらわれない。

それがようやくあらわれるのは、以下の後編のムービーの3分ほど経ったところで、ヘップバーンがスペイン広場の階段にさしかかるあたりだ。
ヘップバーンは車がつらなって走る信号も横断歩道もない横断しようとするのだが、それが可能なのは走る自動車の速度がきわめて遅く、馬車とそれほど変わらないような動きなのと、噴水のまわりの一方通行の場所であるからで、そもそも車の数も多くない。


しかし、それから10年あまりが過ぎた1967年に、プラーツによって書かれた「ローマの広場」には、こうある。

ポポロ広場の1枚の写真が、なるほどと頷けるような広場の写真を撮ることが今日なぜ不可能であるのか、その理由をわれわれに説明してくれているのかもしれない。その写真は、卵の入った籠のように見える。卵、すなわち駐車中の自動車である。序文の中で、エドアルド・ペッツートがいみじくも語っている。「夜が明けたばかりの時刻、魔法にかけられた静けさの中でのみ、ローマの広場は己の魔術的な美しさを見いだし、栄光の過去をふたたび生きる。車の波が押し返してきてどうしようもなく見苦しいものになるまえの、ほんの2、3時間だけ」。

その写真がこれだ。

確かに自動車の群れが広場の光景を台無しにしている。
10年経っての違いがこれだ。1967年に書かれた書評の、元の本に掲載された写真だからそれよりも年2年前に撮られたものかもしれない。日本で言えば昭和40年代の初頭にあたる。

プラーツが嘆くのもわからなくはない。『ローマの休日』の時代は、まだここまでではなかったのだろうから。
広場も、自動車も、所詮両方とも人工物であることに変わりはないのだけれど、時代のミスマッチがどちらの良さも消してしまっている感がある。
となれば、つまりは、コーディネートの問題なのか。

自然-文化連続体都市としてのローマ

いま読み進めている『ポストヒューマン』という本のなかで著者のロージ・ブライドッティが用いる用語の1つに「自然-文化連続体」というものがある。
自然と文化という、従来、二項対立的に相容れぬものとして扱われてきた2つの対象ももはや分かち難く混淆しており、もはや両者の混入物以外のものは人間そのものも含めてありえないことを示した概念だ。

この観点からみると、ローマというのは兼ねてから自然-文化連続体の典型だったのではないかと思えてくる。

プラーツは自動車の大量の導入がローマの街の景観を壊したことを嘆くが、ローマという都市はそもそも古代の都市の上に、中世やルネサンスやバロックや新古典主義などといった、時代の異なる人工物がまわりの自然環境ともども折り重なるようにできた都市だったのではないかと思う。
自動車が増えて景観を壊すというのも、時代のミックスという点では、常にどの時代においてもローマでは起こっていたことだろう。そこに問題があるとしたら、それまでとは違ってコーディネート的に美しくない選択をしてしまったということくらいではないか。
とすれば、それは言わばプラーツの趣味の問題とも言える(もちろん、僕もプラーツ寄りの趣味ではあるが)。
そして、人間の趣味というのは、まさに時代とともに変化する。

プラーツ自身、ジェイムズ・ホーエルの『ホー・エル書簡集』を引きながら、こう書いている。

「廃墟の光景は私を屈服感で満たし、そして、生命あるものも無きものも物体はすべて崩壊と変容をこうむり、月の下に存在するものはすべて同様であるという、月下界のすべての事物のはかなさについて、一層敏感にさせたからである」。これこそ、ペトラルカ以来、廃墟への瞑想が趣味化して、絵画的な愛好へと転じる18世紀にいたるまで、廃墟を扱った文学のすべてに連綿と伝わるキリスト教的エレジー(哀歌)のトポスである。廃墟を描いた画家たちの中で、この哀調を伝える作品はまれであるが、唯一プッサンの《われ、かつてアルカディアにありき》が例外である。

古代の廃墟をみて哀愁を感じる趣味は、プラーツ自身が言うように「ペトラルカ以来」の「趣味」である。 プッサンが古代をイメージして描くことと変わりはない。

最初期の人文学者(ヒューマニスト)として知られるペトラルカ登場までの中世までは、廃墟をそんな風に見る目はなかった。中世とは、宗教どっぷり、何事も神を中心にした世界だったのだから。
中世のあとにはじめて、ペトラルカ以降のルネサンスが古代をヒューマニズム的に、人間中心的に廃墟となった古代の芸術に失われた美を見いだした。

すでにここに人工物の自然による廃墟化という「自然-文化連続体」的な価値は見出されているのだが、なぜか、このあと人文学は人間中心主義に向かい、人間の理性を自然から切り離そうとする。

プラーツとロマン主義

人間中心主義的な視点で、自然と文化の分離を徹底し、自然を人間の手では触れられない遠く絶対的な存在にしてしまったとして、18世紀末から19世紀前半にかけてのロマン主義の影響を指摘するのが『自然なきエコロジー』のティモシー・モートンだ(書評note)。

彼は「消費主義の誕生はロマン主義の時代と一致している」といって、ロマン主義以降、自然が人間に容易に触れられない不在者の位置に置かれたがゆえに、かえって、そのイメージだけが消費しやすいものとなってしまっていることを指摘する。「近年の環境運動には、ロマン主義の名残がある」とモートンはいうが、その影響は、このプラーツの趣味にも影響を与えているように思う。

何よりプラーツという人は、『肉体と死と悪魔 ロマンティック・アゴニー』などの著作のあるロマン主義の研究者だ。
プラーツが生きた時代は、ロマン主義の作家たちが生きた時代から150年ほど隔たるが、ワーズワースやコールリッジらのイギリスにおけるロマン主義文学の中世への憧憬や自然への目の向け方は、その後のジョン・ラスキンやウィリアム・モリスらに受け継がれ、それをさらにプラーツは引き継いでいるように思う。

1923年から34年までをイギリスで過ごし、イギリス文学、とくにロマン主義文学を研究したプラーツはワーズワースやコールリッジ、そしてラスキンやモリスと引き継がれた流れのなかにあると言える。
この『ローマ百景』でローマに注がれる目は、その流れのなかでのプラーツの趣味の目であることを強く感じるのだ。

ローマの壮大な遺跡、このローマが誇る至宝はなおも残っている。だがこれらは、かつてフェルディナンド・グレゴロヴィウスが「野蛮な中世のメランコリーに満ちた魅力をいまだ残す、幾世紀にもわたる緑青に覆われて錆つき、腐敗した都市」と述べた時代のような、朽ち果てたローマと溶けあうことはないし、中世に形成され、ベッリ[1791-1863]の時代まで継続していた、死せる都市と生ける都市との共生はもはや存在しない。ベッリの時代には、この都市は彼の詩情と同じ香を放ち、無作法と威厳が同居し、皇帝のごとく高貴ではあるが、雑種の言語が話されていた。かつてフローベルが「偉大なる総合」と呼んだ物哀しさと英雄的なるものがロマン主義的に隣りあっていたのである。

と、プラーツが書くとき、目の前から失われつつあるようにみえたのは、そうしたロマン主義的な美学の影響下における趣味からみたローマだったのだろう。

ヒューマンの終わり

結局、そんないくつもの時代がミックスされた形のローマというハイブリッド都市において、建築物という人工物が良くて、自動車という同じ人工物がダメという理由は、美的な趣味的なものを除いてあるだろうか?

いや、もちろんあるのだが、それはプラーツが趣味的に指摘していることではなく、環境面での問題だ。ローマに長く建っている建物に比べ、大量の自動車が環境に与え続けている影響は計り知れない。しかし、そんなことを言ったら自動車以上に人間そのものの方がはるかに問題だ。それはこのプラーツの本とは関係ない。

しかし、果たして、そうなのだろうか?

ローマに数多く残る貴族などの邸宅パラッツォの1つ、パラッツォ・スパーダの壁や天井を埋め尽くした人物の像について、プラーツはこんなことを書いている。

寓話や古代人たちの物語は、ある部分はキリスト教神学の予型とも象徴とも解釈され、また別の部分は錬金術の材料と操作を暗示していると解釈されてきた。すなわち、こちらには神聖という完璧な光へと段階を追って到達する観念が描かれ、あちらには、賢者の黄金という最終的な結果にいたる経過が説明されている、というわけである。隠喩的想念の連合は、神学的推論にとっても疑似科学的推論にとっても必要な道具であった。

このパラッツォ・スパーダは、1534年から50年にかけて、カポディフェッロ家の邸宅として建てられたものだが、その内部はこんな風な彫刻で埋まっている。

上の引用はこの像のある内部についての説明であり、「万物は一者から流出したもの」とする新プラトン主義のことを「キリスト教神学の予型」としているので「完璧な光」があり、他方に錬金術的な「賢者の黄金」があるのだろう。

ポイントは、これが疑似科学推論だとされるところで、それが17世紀バロックの時代の光学と結びついて、このパラッツォを1632年に購入した枢機卿ベルナルディーノ・スパーダ(だから、パラッツォ・スパーダである)が購入し、この人の「視覚的なものへの妄想狂的な関心」からバロック建築家として有名なフランチェスコ・ボッロミーニによって新たに作られた「このパラッツォ最大の見どころ」が生み出された。

すなわちそれは、ボッロミーニの手になる、見る者の目を眩惑させる遠近法と日時計である。1653年末に完成したこの遠近法の仕掛けは、まさにバロックの「幻惑」の概念の典型的な図解であり、あるいは人間の知性を楽しませようとする策略である。それは、聖アウグスティヌス修道会士ジョヴァンニ・マリーア・ダ・ビトント師が考案し、ボッロミーニが建築上の専門的助言を与え、実際の現場での建築の指導をフランチェスコ・リーギが行なっている。日時計の作者は聖フランチェスコ・ディ・パオラが創設したミニモ托鉢修道士会士エマニュエル・メニャン師である。ジャン=フランソワ・ニスロン著の『光学魔術』中にはじめて引用されているこの日時計は、時刻を、伝統的な日時計に見られるように、グノーモン日時計の針の影ではなく、小型の鏡が反射して光の点で指名しているのが特徴である。それゆえ夜であっても、月の反射光と、通路の壁に掛けられた専用の時間換算表で計算することによって、時刻を知ることができたのである。遠近法であれ日時計であれ、とどのつまりは、科学を驚異(メラヴィリア)のために奉仕させる、たえずバロック的な機知を目指す、創意に満ちた考案物であった。

この短い文章を読んだとき、僕は興奮した。これはまさにデカルトの懐疑論に直結し、彼が精神と物理世界を二分した理由そのものでもあるからだ。そう、ここには自然-文化連続体の敵となる考えの根源がある。
まず、「ミニモ托鉢修道士会士エマニュエル・メニャン師」、この人はデカルトとパリで懇意にしていた人であり、デカルトはこの人物と何度も光学や自動機械についての議論を交わしている。次に、ジャン=フランソワ・ニスロン、そして、その人の著作である『光学魔術』。これこそデカルトが1637年に著した『方法序説』中の「屈折光学」という論文の影響下に書かれたものである。デカルトはその本で遠近法などの光学的錯覚について論じている。

デカルトは遠近法について、こう考えていた。

円は別の円によってではなく楕円によってこそもっと巧みに表現され、正方形は正方形ではなしに台形によってこそ巧く表現され、他の図形についても全く同じことが言えるからである。つまり、イメージとしてより完璧たらんとし、ある事物をよりよく表現しようとすればするだけ、その事物には似ていてはいけないことになる。

円は楕円であり、正方形は台形として表象される。
つまり、事物の本質は、表象とは異なっている。
そのことがデカルトを懐疑に向かわせた。精神と物質の二元論が生じる。

このスパーダ邸にあるのは、そうしたデカルト的な科学が結晶化したものだといえる。ゆえに、プラーツが喪失を嘆いているのは、そうしたバロックの時代のデカルト的懐疑とその懐疑の源泉となった光学魔術が混在化した、脈々と流れるヒューマニズムの世界なのだといえる。

そして、いま危機に瀕しているのは、このプラーツが嘆くヒューマニズムであり、ヒューマンそのものだ。
問題は、自動車の大群が街の景色を醜くすることではない。自動車をはじめとする産業革命以降の発明品が地質時代的にも人間の活動が地質的なレベルで環境に影響を与える人新世となり、人間がもはや人間単体ではいられなくなったこと自体が問題なのだ。そう。僕らは必然的に、常に、自分たち自身も含めたさまざまなものを自然―文化連続体として考えなくてはいけないのだ。

もはや、人文学の時代のプラーツのように、僕らはローマの環境も、ほかの地球上のどこの場所の環境も人間的視点で嘆くことはできないし、そもそも人間的に考えること自体の見直しを迫られている
そんなポストヒューマンの時代を視覚的に示してくれているのが、『ローマの休日』とマリオ・プラーツの嘆きのあいだにあるように思う。ポストヒューマンは人新世のはじまりともいわれる、1950年代から1960年代のあいだのどこかではじまったのだろう。


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