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環境は私を含む

うまくいかないことを外部の環境のせいにしてしまう。
社会のせい、経済のせい、会社のせい、誰かのせい……。

この人新世のこれだけ環境問題が叫ばれる、グローバルに相互につながりあった現在の世界において、自分にとってうまくいかないことを、そんな風に自分以外の外部のせいにしてしまえるなんて、どれだけ考え方が保守的で時代遅れなのだろうかと感じる。平成が終わろうとしている状況で、昭和のにおいがプンプンする(いまだに「サラリーマンは気楽な稼業」とでも信じているかのように)。

社会や組織が自分自身を含むいろんな人々の思考や行動の結果であり、人新世の地球環境が人間の日々の活動(生産や消費や廃棄など)の結果であり、どう取り繕おうとも、自分(たち)自身が良いことも悪いことも含め、自分を含む形で存在している、大小様々なレベルにおける環境に影響を与えていることなんて、考えてみればわかりそうなものだ。
しかも、エコシステムやネットワークというワードがこれほど日常的に語られるうる時代において、その生態系やつながりの網の中で、それを構成する要素の言動や振る舞いがどんなに小さかろうとシステムやネットワークに影響を及ぼしうることは、インターネット上の様々な様相を眺めているだけでも日々感じられるではないか。

共進化の歴史的な帰結として

そんな状況において、自分を取り巻く外部環境の問題を素朴に悪し様にいうことがどれだけ馬鹿げたことかに気づかないのは何故だろう?

つながりすぎた世の中では、ひとりが何かしらの不満をもって機嫌を損ねているだけでも、その構成要素を含む、組織なりシステムなりは悪い方に振れる。ネガティブなループはそこからはじまってしまう。

組織を集合体と捉えることは、構成要素である器官が互いに緊密に統合されているのにもかかわらず、器官のあいだの関係性が論理的に必然的でなく、偶然的に定まりうるだけのものであることを意味している。すなわち、密接な共進化の歴史的な帰結である、ということだ。

と書くのは、ジル・ドゥルーズの「集合体」という概念を起点に、その集合体を単位としていまの社会を捉えようとする思考を展開した『社会の新しい哲学』のマヌエル・デランダだ。

この文章からも組織の様相が、それを構成する各器官の必然的でもなんでもない自律的な振る舞いによって、偶然的に定まりうるような共進化的な性格をもっていることがわかる。
何かうまくいかないと感じているとき、実はその良くない状態が自分も含めた組織の構成要素のネガティブな振る舞いの「密接な共進化の歴史的な帰結である」ということは少なくない(というか、ほとんどの場合がそうだ)。

組織の何か固定化した機能が悪い状況を生みだしているという昔ながらの発想をしてしまいがちだが、多くの場合、悪い状況を生みだす要因となっているのは、固定化されたしくみやルールのようなものであるというより、その環境を構成する要素となるものの自律した振る舞いが、創発的に負のスパイラルを発生させた結果、悪い状況をつくってしまっていることのほうがはるかに多い。
というより、ルールやしくみに良いものでも悪いものでもそんなに人間に影響を与えるくらいのものを作れる力なんてそもそもないのだ。

集合体を構成するネットワークの緊密さ

組織というのは、良い意味でも、悪い意味でも、自分の振る舞い通り(思い通りではない!)の影響が出るものになってきている。それは一重に社会や組織の東郷度合いが社会の情報化や人間活動の力の増大によって、より緊密になっているからだろう。

ドゥルーズは物理的な表現性が機能的なものになる決定的な閾が、惑星の歴史には存在したと主張している。第1の閾は遺伝子コードの出現だが、それは情報のパターンが(原子のような)実体の完全な三次元構造に左右されるのをやめ、核酸の長い連鎖という、分離された一次元的な構造になる瞬間を示している。第2の閾は言語の出現である。遺伝子の線型性がいまだに近接性という空間的な関係性と結びつけられているのにたいし、言語的な有声化は、情報パターンにその物質的な担体からのかなりの自律性を付与するような、時間的な線型性を示している。これら2つの表現性の特殊化された系列は、それ自体で集合体とみなされなくてはならない。

と、デランダは書いているが、遺伝子コードや言語のような情報が集合体をつくるのだとしたら、その情報の伝達性を規模においても速度においても向上させた、現在のグローバルな情報ネットワークは明らかに集合体における個々の構成要素の影響力を高めることに寄与している。

もちろん、組織のネットワークにおける要素間の緊密さを変化させている要因は、情報ネットワークによるものだけではない。
グローバル規模での物流量の増加や、ロージ・ブライドッティが『ポストヒューマン』で指摘していたような、動物や人間の「生命組織のグローバルな商品化」などもそうだ。

遺伝子工学的な資本主義に備わる日和見主義的な政治的エコノミーは、〈生〉/ゾーエー――言いかえると人間であれ人間以外であれ知性をもつ物質――を、取引し利潤をあげるための商品へと変えてしまうのである。

動物が食用やペットや実験材料などの商品として流通しているだけなく、人間もまたその外観だったり、人生そのものだったり、身体の一部の臓器だったりといった形で売り買いされる。特にマイノリティの側に位置づけられる人ほど、そうだ。そうして生命が直接商品として売り買いされれば、人間やその身体的な健康に影響は与えやすくなる。

あるいは、遺伝子コードと集合体との関係でいうなら、『あなたの体は9割が細菌』でアランナ・コリンが指摘している、人間の体内の微生物は細胞の数にして人間自身の細胞の実に9倍存在していて、その微生物が人間の身体的、精神的状態をかなりの部分で司っており、肥満やアレルギー、精神疾患などの20世紀以降に急激に増加した病気が抗生物質による体内の微生物環境のバランスの崩れを要因としているという話だって、デランダのいう集合体として捉えることにつながっている。

しかも、その話は次のような意味で、ブライドッティが指摘した「生命組織のグローバルな商品化」とも関係している。

家畜に関しては、抗生物質への耐性が家畜からヒトに移行するという証拠が出たところで、少なくともヨーロッパでは抗生物質による成長促進剤の使用をやめる動きにつながった。2006年以降、EU加盟国の農家は家畜を太らせるために抗生物質を使うことを禁じている。

これが現在の世界におけるシステムの緊密さだ。
にもかかわらず、状況はこうだ。

現在、地球上にはおよそ190億羽の生きたニワトリがいて、その多くは何段にも積み重ねられたケージに詰めこまれている。この状態でニワトリを病気にさせないためには大量の抗生物質に頼らなければならない。

畜産物としての豚や鶏を太らせるために与えている抗生物質が、結果としてそれを食べる人間の肥満の要因となっていて、肥満治療のための医療費が各国の財政を悪化させていたりする。
といって、これを畜産業者のせいだけにするのでは何もわかっていないのに等しい。一方で人口増による食糧難が懸念され、一方で大量のフードロスが問題とされる世界なのだから。

個人としての私を廃棄する

だからこそ、ブライドッティは「ポストヒューマン」という考え方を押しだすことで個人として独立、自律しているかのような錯覚を与える「人間」という概念の廃棄を提唱しているのだ。
「批判的ポストヒューマニズムを現代的に設定しなおすにあたって、まったく異なる強力な着想源となっているのが、エコロジーと環境保護である」と書いているように、それは人間社会にとどまる問題ではなく、非人間的な生物や地球環境を含めた連続性によりポストヒューマンという新たな主体性を考えようという視点だ。

それらは自己と他者の相互連結の感覚を拡大し、他者として人間以外の他者ないし「地球〔=大地〕」の他者も含めることに依拠している。他者たちと関係をとりもとうとするこの実践は、自己中心的な個人主義を拒否することを必要とし、またそれによって強化される。この実践は、環境における相互連結にもとづいて、自己利益より広い共同体の福利に結びつける新たな方法を生み出すのである。

自己中心的な個人主義を廃棄し、自己利益より広い共同体の福利を考えること
自分自身が何らかの組織や環境に埋め込まれたかたちで生きていることを自覚する必要があり、単にそれらの組織や環境を自己の外にあるものとして、まったく自分ごととしての意識がなく批判するのは、明らかに時代遅れな考え方だと思う。

とはいえ、もちろん、それは個人の自律性を損なうものでも奪うものでもない。

有機体論的な全体性にとってかわりうる理論的な手立ての主要なものは、哲学者ジル・ドゥルーズが集合体と呼んでいるもの、つまりは、外在性の諸関係を特徴とする全体性である。外在性の諸関係はまず、集合体の構成部分が集合体から離脱し、異なった集合体へと接続され、そこでまた異なった相互作用を営むようになることを意味している。言い換えると、諸関係の外在性は、諸関係そのものが関係することになる項がある程度自律していることを意味している。

とデランダが書いているように、集合体という考え方は、旧来の組織論のような「全体性」という考え方をとらず、個々の要素は決して組織全体という合目的に設計されたシステムを回すと歯車ではない。
そうではなく、集合体という系は、まさに自然環境における生態系がそうであるように、個々の構成要素がそれぞれ独立して活動した結果、系全体が調整されるようなあり方を指している。

デランダが「独立した出来事の系列のあいだで偶々起きる遭遇はまた、全体性と、全体性が暗に意味するひとまとまりの宇宙という想念を消滅させることになるだろう」という捉え方が、自分自身を含む環境、組織というものを考える上での現在のポストヒューマン的な考え方になる。

個別要素の自律した動きが組織を健全に保つ

この独立・自律した個々の要素と集合体との関係性は、デランダが会社組織というものに対して考える、次のようなことにもつながっている。

規模の経済の特質である、計画と実行の明確な分離は、変化への適応に関与する組織の人間の数を制限するが、小規模な組織のより平面的な階層秩序とその熟練労働を活用するなら、会社全体は、経験から学ぶことができるようになる。さらに、集積の経済の特質である、会社と供給者のあいだでの協議をまじえた協調関係は、実践的学習がもたらす便益を、ネットワークの全体へと広げていくかもしれない。イノベーション率が高くなればなるほど、所与のネットワークは、小規模企業の先鋭が有する集団的な学習過程からさらにいっそうのことを学ぶことができ、大規模な会社の寡占が有する自足的な方法は、いっそう不的確なものになるだろう。

そう。ここでは、むしろ、小規模な個別要素に近い平坦な階層構造をもった組織の変化への対応力が、大規模な組織体の階層化、機能化されたあり方よりも優れている点が指摘される。
集合体は集合体の集合として入れ子になっているのだから、個別の集合体が自律性をもってその環境において健全に機能しようとすることで結果的に、それを含む大きな集合体の健全さも保たれる可能性は高まる。
体内微生物の生態系のバランスが保たれることで、人間自体の健康も保たれるように。

歯車が合目的にトップダウンで設計されたシステムのデザインに文句を言うことには一定の正しさはあるものの、そうした組織はデランダが言うように「イノベーション率が高くなればなるほど」、「大規模な会社の寡占が有する自足的な方法は、いっそう不的確なものに」なり、「小規模企業の先鋭が有する集団的な学習過程からさらにいっそうのことを学ぶ」必要が出てくる。
もちろん、これが成り立つのは個別要素が歯車として振る舞うのではなく、自律性をもって環境の状況に応じて自身で考え、決断し、行動を起こすことができつつ、ちゃんと周囲と協働できる必要がある。

系における調整機能

人間の身体に自身の状態を一定に保とうとするホメオスタシス機能があるように、自然の生態系にも同様の調整機能があることを示したのが、『セレンゲティ・ルール』のショーン・B.キャロルだ。
そのタイトルどおり、タンザニアにある世界遺産にも登録されているセレンゲティ国立公園という約300万頭の大型哺乳類が暮らす土地が一時期陥った生態系の危機からの回復の話は、まさに個々に独立した構成要素がいかにつながっているかを示す例だ。それはBSE(狂牛病)によって一時期激減していたウシ科のヌーやスイギュウの数が回復の結果、何が起こったか?という話だ。

もっと不可解な変化も見られた。一例をあげると、キリンの増加だ。キリンの増加とセレンゲティで生じているその他の変化のあいだには、関係があるのだろうか? 実際、関係はあった。パズルを解くために必要なピースは、セレンゲティでは乾季における火災の発生の頻度と激しさが1963年以来低下していることを示す、ノートン=グリフィスの研究から得られた。火災は若い苗木の再生を抑える。したがって火災の減少は、若い木の成長を促し、キリンのエサの増加をもたらす。では、火災の減少の理由は何だろうか? シンクレアとノートン=グリフィスは、調査データのなかにそこの答えがあるのに気づいた。ヌーとスイギュウの急激な増加は、はるかに大量の草が草食動物によって消費され、乾季に燃える可燃物が減っていることを意味する。

系としての健全さを保つホメオスタシス的な調整機能は、計画的に設計されたものではなく、個々の要素生物がそれぞれ自律的に動いた結果、生じているものだ。
ヌーやスイギュウなどが健全に生きられるようになることで、火事の原因となる乾燥した草が減り、それがキリンのエサとなる高木の木々の成長を阻害しなくなる。いずれにせよ、明らかなのは個々の要素は独立性を持ちつつ、自身を含むシステム全体に影響を与えているということだ。

ただし、人新世におけるヒトがほかの生物と違う点があるとすれば、ショーン・B.キャロルが指摘する次のような点だろう。

ロバート・ペインが警告するように、「人類が環境を過剰に支配するキーストン種であることについては疑問の余地がない。その人類がルールを理解せず、世界中の生態系を破壊し続ければ、このキーストン種はやがて自滅するだろう」。人類を調節できる生物種は、今や人類をおいて他にはない。

そして、ここで指摘される、ルールを理解しないこと、その影響について考えるべきは地球環境の生態系に関することだけではない。

このつながりすぎた世界においては、すべてが生態系のような緊密で、機械のような固定した機能に還元されない変化に対応しようとする柔軟な集合体によって維持され、動いている。
その環境において、自身も含めた自律性をもった要素の動きが集合体の状態を左右するのだというルールを理解せず、他人事のように、まわりを批判したり否定したりする態度しかとれないのなら「自滅する」しかないのではないだろうか。

技術的なスキルと市民としての責任

そんな相互につながりすぎた世界におけるポストヒューマンな主体性とそれを前提とした集合体のあり方を考える上で、ブライドッティが描く、これからの大学のあり方(ユニバーシティからマルチバーシティへ)は、参考になるイメージを与えてくれる。

現在の大学がテクノロジーの主要なハブや知識伝達のグローバルな拠点として果たしうる役割をふまえ、革新と伝統を混ぜあわせることによって、現代世界における大学制度の継続的な重要性を維持することができるのである。技術的なスキルと市民としての責任、社会や環境の持続可能性への配慮、そして消費主義に対する見識のある関係、これらを組み合わせることが、現代におけるマルチ-ヴァーシティの核心にある価値である。

技術的なスキルと市民としての責任といったあたりに、大学に限らず、ビジネスの場面で、組織において、あるいは組織の外において、個々人がどのような姿勢で振る舞うとよいかのヒントがある。
いかにすれば、持続可能な生き方ができるか?ということを個人=人間単位で考えるのではなく、社会や環境といったことも視野に入れて考えるポストヒューマンとしての意識をもつこと。それを可能にするのが、技術的なスキルと市民としての責任なのだろう、と。

ようするに、自身のことを棚に上げて、組織や環境、まわりの他の人のせいにしてしまう人に足りていないのは、技術的なスキルと市民=共同体の成員としての意識の両方だ

スキルは日々高めるための努力をすべきだし、そのためにも客観的に自身のスキル不足がどんな結果を生じさせてしまっているかに反省的姿勢で臨む必要がある。
そして、共同体の成員としての意識は、それこそ自己中心的な考え方をあらためようとすることだろう。環境としての共同体が自身の振る舞いにより、いまの表情を見せているのであり、自分自身がうまくいかない、嫌だと思っている状況自体が自身の振る舞いや態度によって生じた「共進化の歴史的な帰結」であることを理解することだ。

ポストヒューマンになるということは、そういうことだろう。
僕らははやいところ、人間をやめて、ポストヒューマンに自分自身をつくりかえないといけない。


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