見出し画像

知ることと創造と。

創造とは異なる物事同士がこれまでとは違った形で出会うときに生じる。
すくなくとも人間的な意味での創造とはそういうものでないかと思う。

これまで重なりあったことのない2つ以上の物事同士の結合は、出会いの時点ではある意味、キメラ的で、怪物的である。その出会いはなんとも落ち着かないし、不安を募らせる
こんなものが存在していいのか?
多くの者は疑問を感じるか、無視するかするだろう。

ゆえに、創造はなかなか成就しない。

その落ち着かなさや不安の裡に、新たな意味を読みとることができる者だけがその創造的キメラ的怪物を自らに引き受けることができる。

だから、それが後においてはっきりと価値あるものに転じるのは、不安もろとも怪物を引き受けた者が、その未だ何物でもない相手のキメラ的・怪物的要素を手懐け、洗練させるからである。
だが、その洗練の手続き自体は創造そのものとはまた別物だ。
創造はあくまでキメラ的な怪物を産む出会いをつくれるか?に掛かっている。未だ、生じたことのない組み合わせを生み、そこから生じる怪物めいたものを引き受けられるかどうか。
わかりきったものしか受け止められないものに、とうぜん、その資格はない。

知を準備する

であれば、創造しようとすれば、より多くのものを知っている者がふとした偶然の出会いを好機をとらえ、ある何かと別の何かに並べて、つなぎあわせてみせるということが起こる必要がある。
ようは、創造する者の条件として、その偶然の出会いから何か意味あるものを見出すことができるくらいに、さまざまな領域の物事をよく知っている、心得ていることが求められるのではないか。

自らの体験を経て得る情報だけでなく、書籍などのメディアを通じてどれほど広く知をみずからに蓄えられているか。そうした知を貪欲に求める好奇心があるかどうか。

ボキャブラリーなどもその手の知のひとつだろう。
ボキャブラリーが豊富なら様々な言い回しや想像が可能になるように、ボキャブラリーを含めて、より多くの物事を知っていることによって、可能になる組み合わせもとうぜん増える。つまり、創造のポテンシャルも大きくなる。
そのための知の獲得を普段からどれだけ意識的にできているか? そういう日々の過ごし方をできているか? が創造のポテンシャルには重要になる。

創造力を高めたければ、日々より多くのものに好奇心をもって接した方が良い。インプット量をとにかく増やして、自分が使える知のアーカイブを多くしなくてはならない。

そう、単に知っているだけでなく、自分でちゃんと扱える知の量を増やすことが肝心だ。

言葉の意味はなんとなく知っているだけでは、詩にはならず、言葉を創造的に扱えなくては詩作ができないというようなものだ。
知をどう動かすとどんな感情が生じるか、どんな動きが生まれるかといったあたりまで想像できるくらい、知を扱える状態にしておくことだ。

ようは単に知ってるという状態よりも、ちょっとは使ったことがある、体験したことがあるという状態にまで持ってきておくことが、創造のために知を用いるための最低限の準備ということだろう。

多くの場合、そもそも、この「知る」という姿勢が間違っている。
使いものにならない「知り方」で知ったことにしてしまっていることがなんと多いことか。

他人の知と絡ませる

僕は自分ひとりで創造に臨むよりも、他人とのあいだで創造的な作業を進める方が得意だ(単にひとりだと大したものをつくれないだけとも言える)。
単純にいえば、自分ひとりでやるより、扱える知の総量が増えるから。自分だけでなく、いっしょにやる相手の知を用いることができるようになることが、自分ひとりでやらずに他人といっしょにやることのメリットだ。

世にコラボレーションなるものから多くの創造的なものが生じるのは、まさに、より多くのものを知っている人同士が、互いに自分の知らないものを他人のなかに見てとりつつ、なんらかの自分のなかにある知と相手の知を組み合わせる中で、怪物的な新種がそこから生まれでることがあるからだろう。

だから、単に「他人とやる」と言っても、できるだけ相手を固定しすぎない方がいい。固定すれば、扱える知の総量が変わりにくくなる。
次々に新しい人と関われば、これまで出会ったことのない知に触れられる可能性は高まる。理屈では。

理屈では、というのは、相手があんまり独自の知を持たずにありきたりの情報ばかりで満足してしまっているタイプだと求める知の総量は変わらないからだ。
また、反対に、いっしょにやる相手を固定しても、その相手が常に貪欲に、日々新たな知を獲得するタイプの人であれば、知の総量も固定されずに増える状態が期待できる。

まあ、いっしょにやってて楽しいのは、相手がそういう好奇心旺盛で知に貪欲なタイプの人の場合だ。そういう場合、話してても、どんどん会話も、想像も広がっていって、いろんなアイデアが生まれてくる。話がはずむ中で面白い可能性も見つかってくる。
そうなるのは、互いに相手が見せてくれる新しい知に触れること自体に喜びを感じ、それぞれ自分のもつ知と相手が出す知の重なりのなかで思わぬつながりが生じることに面白さを感じられるくらいに、知の扱いそのものが上手だったりする場合だ。
そういう意味でも、いろんな知を扱えるよう頭を柔軟にしておくことも大事なのだろう。

楽しくつくる

こんなことを考えたのは、マリオ・プラーツが『ローマ百景Ⅱ』で描きだすローマという街の風景が、まさに古代から中世、ルネサンス、バロック、そして、新古典主義やロマン主義、さらに現代へとつながる異なる時代のさまざまな遺留品がいっしょくたになっているものであるのが読めば読むほど、わかってくるからでもあった。ローマはまさに出会うことがない者同士が偶然にして出会った、創造的な都市という様相をみせる。

ローマの壮大な遺跡、このローマが誇る至宝はなおも残っている。だがこれらは、かつてフェルディナンド・グレゴロヴィウスが「野蛮な中世のメランコリーに満ちた魅力をいまだ残す、幾世紀にもわたる緑青に覆われて錆つき、腐敗した都市」と述べた時代のような、朽ち果てたローマと溶けあうことはないし、中世に形成され、ベッリ[1791-1863]の時代まで継続していた、死せる都市と生ける都市との共生はもはや存在しない。ベッリの時代には、この都市は彼の詩情と同じ香を放ち、無作法と威厳が同居し、皇帝のごとく高貴ではあるが、雑種の言語が話されていた。かつてフローベルが「偉大なる総合」と呼んだ物哀しさと英雄的なるものがロマン主義的に隣りあっていたのである。

「風景を創出するのは芸術家である」とプラーツは別の箇所で書いているのだけど、ここに引用した文をはじめとする、ローマという街の記述によって、様々な時代が絡めあって、良くも悪くも独自のキメラ的な光景をみせる街という印象を「創出する」のもプラーツ自身であると言ってよい。
プラーツの本はこれまで他にも何冊か読んできたがその幅広く、かつ深い知をもって展開される論考の創造性には感服するし、力を与えてもらっている。

そんな風にプラーツからは力と知を分け与えてもらっているが、自分で何かをしようとするときには、もちろん他人の存在が力になることもたくさんあるが、まず自分自身で力が湧いてくるような環境を整えることも大事だと思っている。

僕の場合、具体的には、取り組む仕事を面白いものになるようデザインした上ではじめることだ。
仕事が面白く感じられるかどうかは、仕事において解くべき問題が何かであるかということよりも、その問題をいかにして解くかだったり、どのような解をゴールとして用意するかという目標設定だったりする。

だから、基本的には多くの仕事はそれをどうやるかのデザイン次第で面白くもなるし、つまらなくもなる。つまり、自分次第。
もし、仕事が面白くなかったら、それは面白いようにデザインしていないのが原因だ。ちゃんと面白くデザインしなおすか、デザインし直す気がないならつまらないまま我慢してやるしかない。デザインしなおすこともせず、つまらないと文句を言うのは、それが自業自得だと気づいていないだけなのだろう。

面白い仕事は大なり小なり創造的なことが起こるものだと思う。
だからこそ、僕は仕事が面白くなるよう、常により多くの知を自分の中に準備しておきたいと思うし、自分の知らない知をもっている人といっしょに仕事ができるようデザインしたいと思っている。

そうやってちゃんと準備した仕事は楽しいし、結果、生まれてくるものも面白いものになる。そういうことが最近ますますわかってきたので、仕事の準備は怠らないようにしたいと、前より強く思うようになった。

知の探求、そして、自分の仕事を面白いものになるようデザインすること。
この2つは少なくとも、創造的になるために大事なことだと思っている。



基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。