知識人というカテゴリの誕生

固定した形態にとらわれず、変化を見てそれをベースに思考を組み立てることが大事だと思う。世の中の動きを捉えて、その中でまともな思考をしようとすれば、「生成」という視点をしっかり持つことが必要だと思うからだ。

なぜなら時間は、その本質において生成であり、歴史とは「可塑的な持続」、すなわち変化だからである。

こう書くのは、『アンリ・フォシヨンと未完の美術史:かたち・生命・歴史』の阿部成樹さん。
「時の尺度を生きた歴史の推移そのものと混同して」しまう人間の思考のクセを指摘し、「時代区分が歴史の運動を固定し」てしまうことを避け、「「型枠に実質的な価値を与える」ことから、いったん自由にならなければならない」とした後に続くのが、上の引用部だ。

複雑な組み合わせから生じる変化

昔と今、そして、未来。
そこに何らかの型枠をはめて機械的に変化が生じていくように考えるのは安易すぎる間違いだ。
いや、間違いというより、おそらく思考することの拒否の結果なのだろう。

事実はもっと複雑で、変化はさまざまな要因の絡み合いによってしか生じない。その複雑な様相に目を向け、考えるのが億劫なら、理にかなっていない型枠に騙されたふりをして思考を停止する選択肢にも手が伸びる。

だが、そんな誤った型枠でしか物事を見ていないと、結局は自分が目を逸らした歴史に、変化に取り残されることになる。何か創造的な仕事をしようとしているつもりなら、これは致命的だ。

創造を自分たちだけの力のみで起こそうというのは傲慢だと思う。意味ある変化を創造しようとすれば、常に変化であり生成である歴史の流れをうまく利用し、それに乗じて創造的な変化をものにした方が得策だ。

だとすれば、複雑な要素同士が絡み合った歴史というものに目を向けない手はない。

変化としての歴史は場所と領域によって速度を変え、結果としてひとつの束となって流れている。「歴史とは、早すぎること、時宜にかなっていること、そして遅すぎることの葛藤である」。

いろんな流れが絡み合って、大きな変化へと結実する。このひとつひとつの流れにも目を向けることが必要だ。
結果起こったひとつの変化だけを見て、何かわかったかのような気になっていても、ただの後追いのようなこと以外の何も起こせない。どんな複雑な要素同士が絡み合ったのかにきちんと目を向け、理解しようとする姿勢がなければ、自ら創造することなど、できはしない。

情報を自分自身の視点で整理し、構造化することで「理解」そのものを創る思考作業ができなくては、その先に広がる現実の創造などできるはずもないと思う。必要な情報を得ようとせず、知識を持たず、知恵を働かすことのできない者から、創造というものはあまりに遠すぎる。

科学的思考が可能になる土台

結局のところ、創造というものは科学的なリサーチの姿勢と基本的には変わらないのだと思う。しかも、科学的といった場合、それは自然科学のみを指すのではなく、社会科学や人類学も含めてだ。生物学と人類学にそもそも厳密な垣根を設けなくてもいいのかもしれない。垣根をなくして考えると面白い思考ができそうだ。

ところで、この自然科学と人間科学(社会科学)との関連について、先の『アンリ・フォシヨンと未完の美術史』に、こんな面白いことが書かれていた。

古典の普遍的な価値という前提から抜け出すことは、古典を生んだ古代世界の歴史的相対化を意味しよう。その意味で、カリキュラムの近代化を牽引した大学人の中心がラヴィス、セニョボス、ランソンといった歴史家たちであったことは偶然ではない。彼らにとって古典を含めたあらゆるテクストは、人間と社会を知るための素材なのであり、時代と環境に即して読まなければならない。そうした読解は歴史学の営為に他ならないから、歴史的思考こそが近代的・科学的思考の重要な基礎あるいは範型と位置づけられたのである。

すごい視点だと思った。目から鱗の指摘だった。

近代的・科学的思考が可能になるためには、まず、思考の土台が古典の知の体系から自由になる必要があり、それには歴史的な視点で古代という時代を相対化して見る思考を可能にする必要があったのだ、と。しかも、それが先の書の主人公である20世紀のフランスの美術史家である、アンリ・フォシヨンが生まれた1881年のすこし前に起こった出来事だというのだから。

もちろん、ニュートンらが活躍した17世紀中頃には科学的な方法はすでに社会的なポジションを確立していた。
ただし、当時はまだ不自由さがつきまとったのも事実だ。科学を不自由にしていたのは、古典的な考えで、とりわけ宗教が科学的な思考が自由に羽ばたくための制約となった。古代の思想や宗教を相対的に捉える歴史的な思考が可能になってはじめて、科学は束縛から放たれ、自由を得る。

政教分離-ライシテ

フランスにおけるライシテと呼ばれる教会と国家の分離原則が成立したのが、ちょうどフォシヨンの生まれた時代である。

1881年生まれのフォシヨンの世代が経験した教育とは、まさに進行する教育改革、ライシテ追求の過程と重なっており、彼らは初等教育から高等教育に至るまでその洗礼を受け続けた世代であるということを確認しておきたい。

たとえば、公立学校での教師の非宗教性を保障するゴブレ法が成立したのが1886年、政教分離法であるライシテ法が成立するのが1905年である。

それ以前のヨーロッパ社会において宗教は何をやるにも規範として機能していた。それは足枷という意味においても。

学問の分野においても同じだ。
11世紀末のボローニャ大学、12世紀の半ばにできたパリ大学を皮切りに中世のヨーロッパに登場した大学は、当然ながら、神学を中心的な学問とした。神学を中心に、医学と法学が大学における学問のすべてである時代が長く続いた。

それがようやく変化しはじめたのが19世紀に入ってからだ。
フンボルトがその土台を作ったベルリン大学が最初のモデルを作った。哲学が先の3つの学問や自然科学などのすべて学問的探求を指導するというモデルがそれだ。研究と教育の一体化を図るという現代の大学に通じるモデルを作ったのがベルリン大学だった。

その高等教育における脱宗教の流れが初等教育にもつながっていく。

フォシヨンの生年である1881年には公立初等教育の無償化が、翌年には初等教育の義務化と非宗教化が、それぞれ法的に定められている。

こうした変化があってこそ、自由な科学的な思考が社会をリードするようになったわけだ。
わずか140年ほど前のことでしかない。

知識人というカテゴリの誕生

ひとつ前に紹介した『クリオ』の著者シャルル・ペギーは、アンリ・フォシヨンより8つ年上の同時代の作家だ。

だからだろう。
『クリオ』においても歴史の女神クリオがこう言うシーンがある。

「新しいソルボンヌ」とは何のことか。いいこと、こういう言葉の綾が年代をくっきりと浮かび上がらせ、1つの世代を切り取ってみせる要因だから、よく覚えておきなさい。「新しいソルボンヌ」という言葉を、今の時点で、あなたも含めた現代人が口にするとき、頭に浮かぶのはランソンとその忠実な部下であるリュドレールのこのと決まっている。

クリオが「新しいソルボンヌ」で思い浮かべたのは校舎の建て替えらしいが、ペギーやフォシヨンにとってのそれは校舎建て替え後の、「カリキュラムの近代化を牽引した大学人の中心」であり共和主義者であった「ラヴィス、セニョボス、ランソンといった歴史家」たちによって主導された教育改革を指していた。

この「新ソルボンヌ」に代表される脱宗教、民主化に向かった教育改革により、科学は自由になり、科学を追求するみ知識人」という新たなカテゴリが社会に生まれた。

「無私無欲に真理を追求し、それを通じて人類と社会に貢献する科学者」というイメージは1890年代の若者に強い印象を残し、やがて「知識人」なる新たなカテゴリへと発展していく。

この新しいカテゴリである知識人は、旧来の文人たちとは異なる人たちだった。

その特質は、従来政治的に大きな発言力を有していた「文人」があくまで個人の才能と権威に基づく存在であったのに対して、「知識人」は彼らの職能に基づくカテゴリなのであり、個々人の知名度や権威は問題ではなくなったことである。

といったように。
文人は個人の才覚によるものだったが、知識人は「新しいソルボンヌ」に代表される新たな大学制度におけるカリキュラムを通じて作られる、社会的な生産物だといえる。
そして、かつての文人が個々人の才覚によって政治的な力を持ち得たように、新しく生まれた知識人たちも政治参加を行うようになる。

そうした変容は、言うまでもなく、政治参加への扉が大きく開かれたことを意味する。そしてその背景には、上に見てきた高等教育の量的な充実によってそれに携わる教員、学生の社会的存在感が増すとともに、質的な改革によって特に大学が、学位授与機関から知的共同体へと大きく性格を変えたことが作用している。

政治参加する知的共同体。
それが19世紀末に登場した新しい社会的な集団である。逆に言えば、それまではそうした社会的プレイヤーは存在しなかったわけである。120年くらい前までは。

知のあり方を疑おう

ほんの100年すこし前でさえ、知のあり方、知というものの使い道やそれを使える人の範囲というものは今からは想像できないほど、違ったわけである。
ようするに、知のありようや、その使い方は何もいまあるあり方だけが正しいというわけではない。

なのに、僕らはいまの知との付き合い方や知をもつ人の責任や役割が普通だと思い込んでいて、知というものについてもっと考えてみよう、知そのものをもっと知ろうという姿勢が足りなさすぎる。
当たり前のように頭に入ってくる情報や考えに対して、無意識、無関心すぎて、批評精神に著しく欠けている。

それではつまらないし、その結果生じることに対してはあまりに無責任すぎると感じる。ましてや、その結果が不愉快で、誰かしらに迷惑をかけるようなものだとしたら、何故もっと行動や思考に自覚を持てないのだろうかと悲しくもなる。

僕らは間違いなく、19世紀末に誕生した知識人というカテゴリに属するものだ。
それなのに、生まれた当時のそれが有していた力はいったいどこに消え去ってしまったのだろうか。

僕らはもっと自分も知のあり方を疑い、知そのものを歴史的な変化や生成の俎上にもう一度きちんとのせてあげる役目を担わないといけない。

僕らはもっと歴史主義的に行動する必要があるだろう。


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Hiroki Tanahashi

言葉とイメージの狭間で

ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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