見出し画像

時間のなかに生きる

僕らは空間のなかに生きているのではない。
僕らは時間のなかに生きているのだと思う。

変わらぬ空間を前提にするよりも、変化そのものである時間のなかで生きている、そのことを前提に考えてみる。行動してみる。
自分たちが変化からどんな影響を受け、逆に自分たちの活動によってどんな変化を生み出しているかを考えることが自然にできるようになるといい。

生成であり、変化である時間

物質の性質や、種としての生物の特徴も常に変化するようなものではない。
けれど、個々の物質の状態はむしろ一定ではないし、個体としての生物にいたっては止まることなく変わり続け、歳を重ねていく。
この当たり前のことを前提にして思考することができず、間違った行動の前提をおいてしまうことが多いのではないだろうか。
つまり、変わらぬことを前提に「維持」という行動判断をしてしまうことが。
だが、周りが常に変わっていくことを前提とすれば、「維持」などという無意味かつ労力のかかる戦略を選ぶ理由はどこにもないことに気づくはずだ。

19世紀末から20世紀初頭に活躍したフランスの美術史家アンリ・フォシヨンを扱った『アンリ・フォシヨンと未完の美術史:かたち・生命・歴史』で著者の阿部成樹さんはこう書いている。

ある特定の世紀が、まるで人生のように幼年期から老衰へと至るかに思える時、人は時の尺度を生きた歴史の推移そのものと混同しているのである。そこまでいかないにせよ、時代区分が歴史の運動を固定し、各時代を建築の平面図のように併置してしまうことは否めない。こうして「型枠に実質的な価値を与える」ことから、いったん自由にならなければならない。なぜなら時間は、その本質において生成であり、歴史とは「可塑的な持続」、すなわち変化だからである。

そう。変化であり、生成だ。
固定して静止した状態であるものなどなく、常に何かが生まれ、それによる変化が生じている。増えるし減るし、答えは変わる。

昨日の繰り返しのような今日はない。
明日が今日と同じようにあると思うのはどうかしてる。
昨日と今日と明日を同じように過ごそうとしているのだとしたら、何のために毎日を過ごしているのだろう?
本当にただ同じことを繰り返すために地球の資源を浪費し、地球環境に負荷をかけ続けて自分たちの生活の持続性さえ危うくしているのだろうとしたら、どうかしている。
変わらないことを前提に脳天気に過ごしていたら、悪い方向にだけ状況が変化しているなんてことになっているわけだから。

維持ではなく、生成のために思考し行動する

歴史とは変化そのものであって、建築の平面図に代表されるような固定した空間的な様相とはまるで異なる。
それは、時間的なものがそもそもそうだということだろう。

一定の目盛りで刻まれる時計の時間ではなく、個々の個体の主観的な意識によって早くもなれば遅くもなる変化の連続。
それが時間のもうひとつの側面だろう。
時間は共通ではなく、個体間で異なり、個体同士が共同の活動によって絡み合い、歴史を織り成しながら、その歴史もまた複数存在する。

別にパラレルワールド的な話ではない。
単にたがいに交わらない2つの集団にはそれぞれの歴史が流れているというだけではある。それでも時間は個々の個体に流れ、その交流による歴史も異なる場所や集団ごとに複数存在するというだけだ。

だから、答えが空間的に固定して存在していることを前提とするような思考は、時間のなかで考える際には適さないのだと思う。
変化する時間のなかで考えようとすれば正しい答えは何か?ではなく、自分たちは何を作り出そうとしているか/何を作り出したいのか?という問いにしたがって考えるべきだろう。
変化のなかにおいては「生成」こそが行動において求めるべきだろう。
そこで求めるべくは「維持」ではない。

過去の状況・状態の積み重ねと、未来に向けての状況・状態の連続的な生成のなかで、自分たちが求める方向に「生成」を促すために、いま何をすべきか?を問う姿勢。
それが1つ前の「こうしたらああなる思考」で書いた持続可能性という観点からも重要視されるようになっていると思う。

それは同時に人それぞれが自分の責任において考え、行動することが求められる時代になったということでもある。
そのためにも空間のなかで考えることと時間のなかで考えることの違いを理解することが必要だ。

2つの記憶タイプ

いま読んでいる『物質と記憶』のなかでアンリ・ベルクソンが記憶を2つのタイプに分けていることが興味深い。

1つの記憶は、何かを繰り返し行うことを可能にするように記憶力。
ぼーっと考えごとをしていても家に帰ることができたり、顔を洗えたり、箸でご飯を食べたり、クロールで泳いだりという行為を可能にする記憶がある。犬を犬と認識したり、友人や知人を見分けられるのも動揺の記憶によるものだ。
これらは知識と呼んでもいいが、時間に縛られない記憶で、ゆえに繰り返しの行為を助けてくれる。

それに対するのが時間が伴った、基本的にそれぞれ1回きりの記憶だ。
どこどこに旅行に行ったとか、学校の卒業式とか、いついつの大事なプレゼンでの緊張の体験とか、そういうものは特定の時間、特定の場所からは切り離すことができない1回性の出来事の記憶だ。
こちらは行動を助けるというより、意識に残って意識の上に再生される。

前者が、記憶によって可能になった、みずからの行動を通じて、外の世界に直接接触しようとするための記憶だとしたら、後者は過去にアクセスすることで自身の内部で意識的に思考を展開するための記憶だともいえる。

知覚と記憶

まだ4章あるうちの2章めにさしかかったところなので、ベルクソンがどのようなことを語るのか、その全貌はつかめていないが、ベルクソンは知覚と記憶を比較した上で、記憶のもつ役割を重視している。

いわゆる観念論と実在論、唯心論と唯物論の二項対立的なものを、ベルクソンは知覚と記憶というセットを持ち出すことで回避していて、物しかない、物に接することはできないという双方の陣営が主張するいずれも日常的な感覚では合意しがたい主張に対して、ベルクソンは、物もあるし心もあると納得感のある考えを展開する。カントが物自体といって、人間から切り離した物に関しても、そんな切断はないことを、物質そのものと僕らによる物質の知覚のあいだにある差は「程度の差」だということでベルクソンは示している。

物質の知覚と物質そのもののあいだにあるのは、単に程度の差異であって、本性の差異ではない。純粋知覚と物質は、部分と全体の関係にあるからだ。これはつまり、物質はわれわれが現にそこに見て取っているのとは別の種類の力を及ぼしたりはしない、ということである。物質は何らかの謎めいた力などもっていないし、そんなものを隠しもてるはずもない。

本性の差があるとすれば、むしろ、知覚と記憶のあいだであって、前者が物質との現在的関係において生じるものであるとすれば、後者は過去に生じた知覚の文字通りの記憶である。

「われわれの知覚には記憶が染み込んでいるし、あとで示すように、逆に記憶のほうも、再び現在となるためには、何らかの知覚の身体を借用して、そこに自分をはまり込ませるしかない」として、両者が入り組んだ関係で現実には生じることをベルクソンは認めるが、現実の物質にとらわれない形で記憶のイマージュを操作できる点に、人間の特殊性があるとベルクソンはいう。

過去をイマージュとして呼び起こすために必要なのは、現在の行為から自分を引き離せること、無用なものにも価値を与えられること、夢見るのを欲することである。この種の努力ができるのは、おそらく人間だけだ。それでもやはり、われわれがそうやって遡っていく過去は非常につかみにくく、われわれの手から流れ去ろうとするのが常である。

記憶の再認が、物質のある現実の状況から引き起こされる点を想起しての記述である。「現在の行為から自分を引き離せる」かは、刻々と変化する現実に記憶がどれだけ引きずられるかによる。

過去のイマージュに縛られないで

しかし、はじめに書いたように、いまの僕らはむしろ、変化する現実に目を向けるほうが苦手で、現実の変化を見ず、みずからの中に固定された過去のイマージュにばかり目を向けがちだ。

拡がりをもった知覚において主観と客観はまず1つに結合しており、知覚の主観的な側面は記憶力の行う凝縮に由来するものであり、物質の客観的実在のほうは、この知覚が内側から分解されて得られる多数かつ継起的な振動と別ものではない、ということになる。(中略)主観と客観、両者の区別と結合に関する諸問題は、空間ではなく、むしろ時間との関係において立てられねばならないのだ。

まさに時間に対する感覚の希薄さが、主観と客観を混同させてしまっているかのようで、現実(の変化)をうまく認識できず、いまの状態が永遠に続くかのような前提で嗜好をしてしまいがちな傾向になっている。

しかし、常に現実に目を向け、変化を日々認識していれば、固定された答えや制度などに縛られることの無意味さに気づけるはずなのだが、どうだろう?
現実の変化において思考し、常に未来へのシミュレーションを回しながら、自らもどんな変化をつくりだしていくかを重視した思考や行動を第1にすることで、過去のイマージュに縛られて、現実の変化に置き去りにされることもなくなるのではないかと思う。

固定された空間のなかで考えるのではなく、変化する時間のなかで考えることをデフォルトにしていかなくてはならないと思う。


基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。