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夜の闇のなかで創造が成ったとき、僕らにはまた何も見えなくなる

曖昧な状況が好きだ。
そこからなら多くのことをこれから作っていける気がするから。

逆に、いろんなことが決まっていて明確になっていると、もはや終わってしまった感覚を受ける。最終形が明瞭だったり、方法や手順も決まっていると、まだ出来上がってなくても、出来上がっているのと同じように思えて、面白さを感じられない。

曖昧な状況だと、何をすべきか、どんなアウトプットにするか、どうやればいいかなど、いろんなことを考える余地があるから面白いと思う。
やり方がわからなくても、何をすればいいかわからなくても、そのこと自体を自分で考え、自分で試行錯誤しながら決め、作っていける自由な創造の余地が残っている状況が好き。

すべてが消失した。もはやなにも見えない

そんな僕の好きな状況をまさに象徴的に示してくれている話を、昨夜、ダリオ・ガンボーニの『潜在的イメージ』の中で見つけた。
ガンボーニのこの本自体、曖昧で不確定なイメージをテーマにしている本なので、僕の関心にあっている。2段組450ページを超える分厚い本なのだけど、少しずつでも面白く読み進めている。

昨夜見つけた話というのは、スウェーデンの劇作家、小説家で、絵画の制作も行ったヨハン・アウグスト・ストリンドベリの話だ。ストリンドベリはこんな絵を描いている。

曖昧で素敵な絵だ。ぜひ実物も見てみたい。

ガンボーニによれば、1894年の論文「芸術制作における偶然」で、ストリンドベリは森を散歩していたとある心地よい朝の体験について書いているという。囲いのある休耕地に着いたストリンドベリは「見慣れぬ奇妙な物体に釘付けに」なり、その畑に横たわる物体が次々と変容=メタモルフォーゼする様を報告しているのだそうだ。

最初、それはストリンドベリの目にそれは、雌牛の姿に見えたが、次には抱き合う二人の農民になり、さらには樹木の幹になったりして、彼はその印象のゆらぎを楽しんだという。

曖昧な物体は、さらに「田園の昼食の光景」になり、人々がテーブルについているように見えはじめたが、「人物たちは蝋人形の館のように身動きしない」と感じたとき、ストリンドベリは「なんたることか、魅力が消えようとしている。そろそろ終わりが近づいている」ことを悟る。
やがて、曖昧な物体は、放り出された鍬の形になり、それが「鍬の上に労働者が上着を脱ぎ捨て、作業着をぶら下げている」だけのものであることにストリンドベリは気づいてしまう。

「すべてが消失した。もはやなにも見えない」とストリンドベリは言い、「快楽の泉が汲み尽くされたのだ!」と楽しい時間の終わりを嘆いた。

曖昧さを悦楽の源泉として価値づける

このストリンドベリが書き残したエピソードについて、ガンボーニは次のように書いている。

ひとたび対象が明瞭に認知されたとき、彼は「もはやなにも見えない」と言う。曖昧な対象認知をめぐる典型的体験だが、流動的な解釈学的行為を行うのみならず、曖昧さを悦楽の源泉として積極的に価値づけている点において際立っている。

レオナルド・ダ・ヴィンチが「才能を刺激してさまざまな試みを引き出す」方法として、壁のしみから湧き上がる想像的イメージを作品制作の源泉にするよう説いたのを筆頭に、曖昧さと不確定性は、芸術家の創作と関わり続けてきた。

ただ、ここで紹介されたストリンドベリのケースは創作の源泉というより、鑑賞者としての快楽の源泉としての曖昧さであり、すこし異なっている。
創作者と鑑賞者という立場の違いもあるが、そこに快楽が入り込んでいる点で、僕自身の好みにも近くて、このエピソードがとても気になったのだ。

オウィディウスが『変身物語』で神々の変身の様子を通じて、世界のさまざまなものが生成される様を描いた際、そこにはやはり快楽が伴っていたのではないかと僕は感じる。

ドロドロとした不定形なものから何か形をもったものの姿が見え隠れするその不気味でありつつも、生成にともなうワクワク感が変容=メタモルフォーゼにはつきものではないだろうか。

幼虫が蛹になったのち、その殻の内部で一度、身体をドロドロに溶かして、蝶へと変形するプロセスは、まさにストリンドベリが体験した「流動的な解釈学的行為」に重なるし、僕が普段携わってる仕事での曖昧なものからの生成にも重なる。
そして、ストリンドベリが曖昧模糊としたイメージが鍬の形に収束してしまう時に「もはや何も見えない」と嘆いたように、蝶の姿が見えた時には面白さはなくなっている。僕の普段の仕事でも同じだ。

ドロドロしたものからの生成

結局のところ、あらゆる生成は、ドロドロとした不定形な状態の只中にしか起こりえない。形が定まったら、生成する力の「すべてが消失した」状態になる。
いわゆるテンプレート的な穴埋め問題的クリエーションはこの最後の一歩だけを残した状態で提示される。ほとんど答えのバリエーションは決まった状態で。そこには創造性はほとんどない。そんな創造性しか持ち合わせていなかったら、何のイノベーションも起こし得ないだろう。
曖昧な状態から想像力を使ったクリエーションをする力がないと、イノベーティブな仕事はやりようがない。そこに他人まかせの方法論ばかり求めてたら、話にならない。今後、イノベーションの法則がある程度、数値化してパターン化できたとしてもだ。

ジョルジュ・バタイユが『エロティシズムの歴史』で、こんな風に書いているが、ここにあるのが、生成というものの真実ではないだろうか。

アリストテレスにとっても、土や水のなかで自然に形成される動物は、腐敗から生まれでたように見えていた。腐敗物の持つ生成力とは、もしかしたら、のり超えがたい嫌悪と、それがわれわれのうちに目覚めさせる魅惑とを、同時に表現する素朴な想念であるのかもしれない。だがこの想念こそ、人間は自然から作られたという考え方の基盤を成していることは、間違いない。あたかも、腐敗が、つまるところ、われわれが生れ出で、またそこに帰ってゆく世界を要約しており、その結果、羞恥 −− および嫌悪 −− が、死と誕生の両方に結びついているかのようである。

腐敗の一見無価値にみえる生の状態こそが実は生成の土壌であるということ。もちろん、ただの腐敗からは生命は生まれない。しかし、生命のタネが育つのは、そんなドロドロと不定形な土壌であるという点では真実があるのではないのだろうか。最初から形が決まっていたら生成ではない。最初はわけのわからないドロドロの腐敗した状態だからこそ、そこに素材を見いだす力が、創造を可能にする。

創造には夜が必要だ

これをすごく簡潔に示した詩が空海にある。『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』の冒頭部の詩にある、次の一節がそれだ。

生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥(くら)し

明るい光の下ばかりで考えていることに僕は違和感を感じる。その世界ではすべてがもはやほとんど決まっているからだ。かといって、それは都会の明るすぎる夜であっても変わらない。昼間とはルールが異なるだけで、ルールで縛られていることに違いはないからだ。

またしてもバタイユ。今度は『内的体験』から。

夜なくしては、誰にも決断を下すことはできない。贋の光のなかで甘受することにとどまる。決断とは、最悪のものを前にして生ずるもの、超克するものの謂だ。それは勇気の核心だ。そしてそれは企ての反対物だ。

決断なくして創造はない。ここでバタイユがいう強すぎる決断は日常的ではなさずはするが、既存の企てに反抗して創造的であるためには、贋の光を拒否して闇を受け入れる決断、勇気がいる。闇とは曖昧で不確定なものの友人だ。

バタイユはさらに続ける。

決断のなかには秘密がある。最後の最後に、夜のなかで、不安のなかで見出される、もっとも内密な秘密がある。だが夜も決断も手段ではない。いかなる形においても夜は決断の手段ではない。夜は夜自身のために存在するか、あるいはまったく存在しないかだ。

そう。夜は手段ではない。決断の、生成の、創造の手段ではない。ただ、僕らに、決断や、生成や、創造が可能だとしたら、夜が必要だというだけだ。

そして、夜のなかで、決断や、生成や、創造が成ったとき、すべては消失する。夜がもつ快楽の泉は汲み尽くされて、また、いつもの日常的な白日の下で、僕らはすべてを明確に目にしながら、なにも見えなくなるのだ。

#コラム #エッセイ #創造 #芸術 #イノベーション

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