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プロトコル/アレクサンダー・R・ギャロウェイ

2018年4月、アフリカ北西部の国モーリタニアでは2日間、国全体がインターネットに接続できない事態に陥った。原因はアフリカ沿岸部の国々とヨーロッパをつなぐ海底ケーブルの切断だった。理由は明らかになっていない。

分散型で冗長性をもつインターネットは従来こうした危機からは強いと思われていた。だが、この事件で1つの脆弱性が明らかになったわけだ。
もし日本でインターネットが2日間も国単位で遮断されたらパニックになるだろう。しかし、それもない話ではない。この4月には、実際に東京都の御蔵島と神津島、式根島、新島の4島が海底ケーブルの故障で、電話やインターネット、金融機関の一部ATMが使えない状態になったりもしている。

分散することで冗長性を保ち、レジリエンスも備えたインターネットも、物理的なケーブルで集中している箇所があれば、そこが弱点となる。一方、複数のルートが用意されてさえいれば、冗長性は確保でき、事故などによってすべてのルートが同時に故障することは考えにくく、脆弱性のリスクは減る。

この分散型の制御を実現しているものがプロトコルであると論じ、その論理=しくみのもつ特徴やプロトコルによって管理=制御された現代の社会について論じているのが、アレクサンダー・R. ギャロウェイの『プロトコル: 脱中心化以後のコントロールはいかに作動するのか』だ。

ギャロウェイは「規律=訓練型社会にとってのパノプティコンに対応するのが、管理=制御型社会にとってのプロトコルである」と書いている。ミシェル=フーコーが18世紀半ばあたりからの従来の君主=集中型の完全な中央集権的な社会から市民革命以降の脱中心化を目指した共和制的な規律=訓練型社会への移行を論じたのに対応する形で、現代における社会の秩序をもたらす新しいコントロールの形としてプロトコルを論じるのだ。そして、プロトコルによってつくられた分散型の社会をドゥルーズとガタリを参照しながら管理=制御型社会と位置づける。

そう、本書ではプロトコルという形の新しい社会制御のしくみについて論じられている。

分散型制御を可能にする

さて、プロトコルはいまさら説明するまでもないが、コンピュータ通信を行う際の取り決めを表す用語として知られている。もともとはコンピュータ間通信に限らず、異なる者同士がやりとりをする際の取り決めを指す言葉だったが、いまではもっぱら通信分野の用語として用いられることが多いだろう。

よく知られているのはインターネットに用いられるものだが、それ以外にもいろんなプロトコルがある。とはいえ、やはりよく知られているのは、インターネットのプロトコルで、IP(Internet Protocol)やTCP(Transmission Control Protocol)、そして、HTTP(HyperText Transfer Protocol)あたりは誰でもなんとなくは知っているだろう。

このインターネットのプロトコルは、分散型を特徴とするインターネットらしく、取り決めそのものも公開型で誰でもコメントでき、閲覧できる形のRequest for Comments(RFC)で提案されることになっている。

このRFC形式でインターネットの標準規格を策定しているのが、Internet Engineering Task Force(IETF、インターネット技術特別調査委員会)で、この組織そのものが分散型になっている。
ギャロウェイの説明を引こう。

IETFは本章で言及された組織体すべてのなかでも、官僚主義からは最も遠いものである。事実、それはまったくもって組織ではなく、むしろ形式ばらないコミュニティなのである。厳格な内規あるいは公式の役員もない。それは企業(非営利であろうがなかろうが)ではないし、だからこそ取締役会をもたない。標準規格を創出する団体としてなんら強制力をもたないし、いかなる条約あるいは憲章によっても承認されるものではない。そこには会員が一切いないし、だからその会合は誰にでも開かれているのだ。IETFでの「会員」は、個人の参加をつうじて単純に評定されるのである。

このIETFに、新しいプロトコルの案はRFCの形で提案されるのだが、案と言っても、ある程度、使える状態あるいは使われはじめた状態で提案される。標準規格として採用されても誰もそれを利用する義務はないので、それが実質的に「標準」になるのは、そのプロトコルを実際にみんなが使うようになってからだ。

自由な意志で参加することが前提とされた標準規格には、多くの利点がある。標準規格の実装を産業に強制することはないので、成功の重責は市場にかかっているのだ。そして事実、市場で実績のある成功は概して、標準規格の創出に先立つものである。その行動は創発=発生するものであり、強要されるものではない。

先に市場で実績をつくらないと、実質的な「標準規格」となりえない。デファクト・スタンダードになってからスタンダードになるという道のりだ。開かれているというのは、そういうことである。中央の組織が標準を決めるのではない。その意味でもプロトコルの仕組みは分散型なのだ。

分散は必ずしも自由ではない

けれど、この分散が社会における人々の自由につながったかといえば、そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。いや、プロトコルによって自由を奪われている部分は何かしらある。

わたしにとって明確なこととは、自由とはまったく正反対のもの―― つまり、管理=制御―― が、ネットワーク化された情報通信についての過去40年にわたる開発の帰結になってしまったということである。ネットを創設するにあたっての原則は管理=制御であり、自由ではない。管理=制御はそもそもの初めから存在していた。

そもそもプロトコルが異なる者同士のやりとりに関する取り決めなのだから、とうぜん、そこには管理=制御が存在する。それが開かれた場で決められたものだとしても。

「プロトコルは技術にもとづいた「暖かく、心地よい」空間を作り出す能力を私たちに与える」のだとギャロウェイは言う。「しかし」、それと同時に、こう言ってもいる。

そのような空間が温かく心地よいものとなるのは、技法上の標準化や同意、組織化された実装、後半な(ときに普遍的な)採用、方向付けられた参加をかいしてのことである。

プロトコルは、中央集権的な組織によって決められるわけでもなければ、経済的な影響力の強い少数の企業によって牛耳られるわけでもない。しかし、いかに分散型とはいえ、そこでは同意や参加という力が働く意味で、誰にとってもよい結果が生まれるわけでもないし、一度、取り決めが定まればすくなくともしばらくの間はその取り決めの上でやりとりはおこなわなくてはならない。

プロトコルは、流れ(フロー)を調整し、ネット上の空間に方向を与え諸関係をコード化しそして生命体同士をつなげ合わせるそうした言語のひとつである。プロトコルは、自律的な行為主のための作法なのである。

とはいえ、そう。プロトコルの分散型の社会制御の仕組みは誰にでも自由をもたらすわけではないにせよ、それはギャロウェイが上のように書いているように「自律的な行為主のための作法」であり、自律的に行為しようとする者を助けるツールではあるのだと思う。

プロトコルは身体の欲望に訴える

しかし、それでもプロトコルにもそれ特有のクセはあり、それがリスクをはらみもする。

プロトコルのもつ制御の特徴をしめす例として、ギャロウェイは、とある地域の事故が多い道路を改善するための2つの改善法について書いている。1つの改善方法は、スピードを抑制する物理的な抑止体を設置すること。もう1つは法による制限速度を下げ、標識や監視カメラで対応するというもの。
いうまでもなく、前者の抑止体を置くほうがプロトコル的で、後者の対策が前時代的な規律=訓練型社会的な方法である。

ギャロウェイはこう書いている。

スピード抑止体は組織体がかかわる物理的なシステムを創出するのだ。それらはその物理的な力をもってドライバーたちに従わせるのだ。速度を落として運転することが有利なものとなっていくのである。スピード抑止体のためにゆっくりと運転することを欲するようになるのである。(中略)しかし、警察がそこにいて速度を落とし運転するとしたなら、それは権力によって強要された行動以上のものにはなり得ない。こういうことだ、標識類は心に訴えかけるのだがプロトコルがいつも訴えかけようとするのは身体なのである。プロトコルは超自我なのではない(警察がそうであるように)、そうではなくプロトコルは常に欲望のレヴェルに、すなわち、「私たちが欲しているもの」のレヴェルに動作を及ぼすのである。

意識に訴えるのではなく、身体の欲望に訴える。どちらが倫理的に正しいかで行動するのではなく、どちらが直感的かだとかどちらが心地よいかなどによって行動の方針が決まる。プロトコルという取り決めによる制御はそうしたものだとギャロウェイはいうのだ。
僕らはいまUXデザインだのUIデザインだの良いことであるのを疑わずにいたりするが、あくまでそれは身体の欲望に人を誘い込ませる手段を講じているのだということに意識的にあるべきかもしれない。

そこにこそプロトコルのもつリスクがあるのだから……。

プロトコルは危険に満ちたものでもある―― とはいえ、二重の意味での危険というフーコー的な意味合いにおいてだ。第1にプロトコルが危険であるのは、それがわれわれの意味もつ根源的には偶発的で非物質的なはずの欲望を具体的なものにしてしまうよう振る舞うからだ(物象化と呼ばれるプロセスのことである)。2番目の意味においてはプロトコルは権威主義的な調子を帯びることになることから危険なものとなる。同僚の1人パトリック・フェンが最近述べたところでは、「中心となるプロトコルを創ることは、憲法を作ることに似た何かである」。というのもプロトコルは、その他すべての決定が導き出されてくるような中心となる規則群を創りだすことにもなるからである。

この2つのリスクはなかなかにおそろしいものだ。
なにしろ、このリスクをなくすために立ち向かおうにも、18世紀の市民革命のように打倒すべく蜂起する対象となる「中央」もなければ、ひろかに社会を牛耳る限られたブルジョワジー的な企業を相手にボイコットや不買運動を起こすこともできない。
そう、なにしろ分散型のプロトコルが相手では、何を相手に戦えばよいかも定まらないのだから。
プロトコルの弱点である海底ケーブルを一時的に断ち切ったりすれば、被害を受けるのは僕ら自身だったりするのだし。

重力でもあり酸素でもあり脈拍ですらある

もちろん、そのリスクは、悪いものたちにとってもリスクとなる。そうしたものに対してもプロトコルは分け隔てなく「管理=制御を注入する」。それが抑制になっているという利点ももちろんある。

プロトコルとは一種の運営実務上の様式であり、「無秩序の前線」、「反社会的な世界」(それらがなんであるにせよ)、「マフィアのネットワーク」、また「危機や対立や崩れたバランス」へと管理=制御を注入するものである。今日にあってはプロトコルはわれわれにとって重力でもあり酸素でもあり脈拍ですらある。

そう。いずれにせよ、われわれにとってプロトコルはもはや「重力でもあり酸素でもあり脈拍ですらある」ような取り除くことができないものとなっている。

さて、ようやく、ギャロウェイの『プロトコル』を読み終えた。
去年の10月に北野圭介さんの『マテリアル・セオリーズ』を読んで、新しい唯物論の哲学に関心を持って以来、読もうと思って購入したものの、結局、予習の必要も感じてほかの本を読んだりして遠回りしたおかげで、半年以上遠回りした。

読み終えて感じたのは、プロトコルという新たな分散型の管理=制御のしくみがまさに「新しい唯物論」の観点で、物理的に人間の身体の欲望に働きかける「取り決め」として描かれているということだ。

先に書いたように、僕らが何気なくUXだのUIだのという意味のわからないまま使っているワードを用いてデザインしているそのアウトプットが、直感的に、心地よく、僕らの身体を騙し制御可能な状態にすることに寄与しているのだということに、あらためて気付かされた。

分散型のコントロールというのはまさにそのように制御してるつもりもないのに制御したり、批判したり苦しめたりするつもりもない大きな批判の声をつくりだすことを可能にするしくみでもある。

これは相当やっかいだと思う。
やっかいであるがゆえに、せめて、そのやっかいものについて、もっと明確に知ることが必要だろう。
それだけが唯一、リスクを回避する方法なのだから。


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