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思考の土台

21世紀になっても人びとの、わからないことへの対処はとにかくオカルト的になりがちだ。

いま読んでるカルロ・ギンズブルグの『闇の歴史』という本に14世紀のフランスにおいて、ハンセン病患者とユダヤ人が共謀して、貯水槽や井戸や泉に毒物を散布したという嫌疑がかけられ、罪に問われた件が話題にされている。とにかく、歴史的には、嫌疑をかける側の証言ばかりが残ることになるわけだから、本当の事の次第を読み解くのがむずかしく、その事自体が歴史の真実を隠し、それゆえに冷静なはずの歴史家までもがオカルト的な思い込みで真実を捻じ曲げてしまう。

その状況を打破しようというのが、本書の試みと言っていいが、その中で、ギンズブルグはこんなことを書いている。

こうした話のすべてに、キリスト教世界の境界外にのしかかる、未知の脅威に満ちた世界がかき立てる恐怖がかい間見られる。不安をかき立てたり、理解し難い出来事はすべて、不信仰者の陰謀に帰せられた。

自分たちの文化外の理解し難いことに対する脅威が、あったかどうかわからない陰謀を現実のものにしてしまう。
自分たちが感染を恐れて隔離したハンセン病患者という境界外の人たちと、ユダヤ人というより歴史的な積み重ねのある境界外者の行う振る舞いが理解できないことが悪い噂を生み出して、果ては何百人という規模の人びとの処刑という結果につながってしまう。

わからないということのみで、大量の人たちの命も奪ってしまう、わからなさへの対処のどうしようもない苦手さ。自分たちの知の範囲外にあるものに対する無理解が勝手な妄想を作り出し、理解できない対象そのものを境界のはるか外、そう時にはこの世の外へと追いやろうとする欲望が働いてしまう。

これは何も14世紀という遠い昔のことではなく、21世紀の現代においても少なからず起こっていることだ。

外の対象に罰を与え、経済的な制裁や社会的な追放を行うまではいかない、日常的な振る舞いにおいても、無理解が理性的にはまったくあり得ないような行動をごくごく普通の人に起こさせてしまう。

例えば、仕事においてもそういうことは多々起こっている。
特に、どこもかしこもイノベーションが求められるビジネス環境は、とにかくイノベーションという未知であることが最大の特徴であるようなものが仕事をする上でのテーマになりがちな状況では、身近な日常にも「わからない」ものが寄り添うシーンはどうしても多くなる。

にもかかわらず、わからないものに対する対処が苦手であるがゆえに、その方法が正しいかどうかも問われぬまま、勝手知ったるいつもと変わらぬ方法で仕事を行い、何かをやっているつもりになってしまう。しかも、そのことに何の疑問も持たないのだから、もはやオカルトだ。

仕事とは何か作業を行うことだと勘違いしてしまっているのではないか。そう思えるほど、どんな状況で何を目的して仕事をしなくてはいけないかが問われることがない。状況と目的によって、期待される具体的なゴールは異なるはずだし、そのゴールに到達するための手段も異なるはず。つまり、どう仕事するかは状況と目的、さらにはゴール設定次第だというのに、そのあたりを「わからない」状態にしたまま、オカルト的に選ばれた仕事が何の疑問も持たずに進められる。それによって、時間や費用、エネルギーほか資源が浪費されるのをはじめ、どれだけ自分たちの外の対象が犠牲になっても平気というわけである。

これはハンセン病患者やユダヤ人たちを殺した態度と基本的には何も変わらない。

単純な話、自分で状況を理解し、仕事を行う目的と具体的なゴールを定める作業ができないということだろう。何故、仕事をするのかをわからない状態から、わかった上で適切な仕事を行うよう変換するための思考作業が苦手というか、やろうとしない。
そんな風に自分で仕事の意味を組み立てることができない人ほど、他人から与えられた仕事に対して「それって何の意味があるんですか?」といって拒否感を示したりもする。意味を問う気持ちがあるなら、何故、自分の仕事の意味をつくることの努力を決定的に怠ろうとするのだろうか。意味がわからない状態から、意味がわかる状態にできるよう、自分で情報を整理し組み立てる力が求められる。そこは誰かにたよる部分ではない。頼るにしても、せめていっしょにやるべきだ。

そう。思考がオカルト的になってしまうのは、情報を集めて、整理して、仮説を組み立てる、といった基本的な思考作業をやって、状況を把握し、何を目指すべきかを理解しようしないからだ。
やらないのではなく、できないのだということかもしれない。でも、できないとわかっているなら、どうしたらできるようになるか考えてみたほうが良いと思う。それはあらゆる仕事における思考の土台となるような、頭の使い方なのだから。できるようになって得にはなっても、損になることなどない。

何故? 何? どのように? などの問いを情報を集める手段として用いて使いながら、状況を把握するためのデータを収集する。集めたそれぞれのデータ同士がどんな類似があるのか、互いに何を伝え、どんな関係にあるかを整理する。そうすることで、仕事を行う背景、目的が組み立てられるようになる。

仕事は複数のタスクの複合から成る。細かく言えば、そのタスクのひとつひとつに意味、目的が問われなくてはならない。ただ小さなタスクに分解して、そのタスク同士がどんなインプット/アウトプットの関係でつながっているかを理解さえしていれば、しっかりと目的と目標を考えるべきは、小さなタスクをまとめた群に対してだけで良いかもしれない。そのあたりは経験値などによっても違うだろう。

でも、仕事全体としては、それをはじめる前に、まずは最初にわからないことにしっかり向き合う必要がある。いや、わからないものが、いつも見ているわかっているもののような姿でやってきたりするから、ちゃんと疑ってみることも大事だ。いきなり作業だけお願いされたら、それが何のために行うことだと思っているかを確認してみるとよい。
それがどんな背景で何を目的として行う仕事なのか、具体的な成果として何を創り出す必要があるか、そのためにはどのようなプロセスを経て、それぞれの段階でどのような手法と素材を用いて進めるのか、仕事全体、そして、プロセスにおける各段階での仕事の品質基準はどうするか、などなど。仕事全体の要件を定め、仕事全体をプロジェクトとしてデザインしなくては、わけもわからず行うオカルト的な仕事になってしまう。

イノベーションが求められる環境で、何を生み出せばよいかがわからないのに、プロジェクトをデザインすることなどできないと思う人も多いだろう。
だが、そうだからこそ、プロジェクトのデザインは欠かせない。わからないからこそ、わかるようにすることからはじめる必要があるのだ。でなければ、わからないものを永遠に排除するだけの、未来を閉ざした仕事しかできないのだから。

そのためにも、思考の土台としての、情報収集、整理、組み立てによる、仕事をする上でと状況と目的の明確化という頭の使い方を身につけるようにしたい。

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