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低級唯物論

「低級唯物論にしてみれば、自然が産み出しているのは、特異な怪物たちだけだ」。

この如何にもバタイユ的な言い方は、2人の美術史家・美術評論家、イヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウスによる『アンフォルム 無形なものの辞典』のなかに見つかる。実際、「低級唯物論」なる用語はバタイユのものだ。

帯に書かれた「バタイユから未来へ」のコピーにやられて買った一冊は、実際、ジョルジュ・バタイユの「アンフォルムなもの」という考えに負っている。

著者らによるとそれは「操作的で行為遂行的な」力であるという。けれど、バタイユ自身はアンフォルムなるものを定義するのを拒む。アンフォルムなるものを重視することからしても、あらゆる定義や定式化を避けるのがバタイユだ。

閉じ込められたもの

そんなまさにバタイユ的な言葉が冒頭の一文。書いているのは著者のうちのひとり、イヴ=アラン・ボワのほうだ。先の言葉の続きはこう。

自然のうちに逸脱したものはない。というのは、自然には逸脱しかないからである。理念は牢獄である。「人間の本性」という理念は、その中でも最大の牢獄である。「各々の人間[のうちには]動物が[……]徒刑囚のように閉じ込められて」いる。

理念が牢獄だからこそ、そこから脱けだすアンフォルムなものが必要になる。自然が本来産み出すものは、そうしたアンフォルムな怪物だ。それは牢獄に囚われることなく、逸脱しかしない。

所謂「わかる」ということから、これほど遠い場所はない。わかることばかりにまみれてないと不安になる人には、その場所は目にも入らないかもしれない。

アンフォルム。それは人間的な理解や知をひたすらに拒絶する。それを忘れることで人間であることを獲得した、牢獄に閉じ込めた獣性を垣間見せようとする。あらゆるシステムの拠り所になるものを、その獣は根底からひっくり返す威力をもっている。だから、人はそこに近づいてはならない。そこは禁止された場所だ。

異物

それは抑圧されたものではある。
だが、夢となって回帰してくるような「転換」されたものではない。

だから、バタイユはシュルレアリスムを攻撃する。怪物的なものを、人に優しい形に転換してしまうシュルレアリスムを。シュルレアリスムの夢は、バタイユのアンフォルムとは程遠い。

バタイユはそれを「異物」とも呼ぶ。

「異物(異質なもの)という観念を用いれば、汚物(精液、経血、尿、便)と、聖なるもの、神的なもの、あるいは驚異的なものと見なされ得るすべてとが、主観的に見れば基本的に同一である、と示すことが可能になる」。

と。
汚物と聖なるものを同一のものと示せる視点が「異物」という観点だ。

「臭いに関して動物は不快感を示さない。人間だけが、こうした自然を恥としているように見える」とバタイユは『エロティシズムの歴史』で書いている。聖なるものは、この恥から生じる。

この要素は否定されはしたが、否定はこの要素に別の価値を附与する手段であった。未知の、人を戸惑わせるようななにかが生まれつつあったのだ。それはもはや単なる自然ではなく、変容を遂げた自然、聖なるものであった。

と、バタイユは書いている。
怪物しか産まない自然を人間が変容すると聖なるものは生まれる。それは人間が自然を科学的に解釈したり、芸術によって転換するのと大きく変わるものではない。けれど、バタイユは自然の異物性をそのまま扱おうとする。聖なるものが汚物と重なる地点において。

けれど、汚物を人間は自分から遠ざけようとする。みずから生まれでた場合がそこにほかならないにもかかわらず。いや、生まれでる場所がそこだからこそ、人間はそれを消し去ろうとするのかもしれない。それが汚れたまま戻ってこないよう、聖なるものという近寄りがたいもので起源に蓋をしたのだろう。

「とりわけ、自分がどのようにして自然から生まれてきたかを想起させる可能性のあるものはすべて、人間化された世界から遠ざけてしまった」とバタイユは書く。
結局のところ、遠ざけた汚れた怪物を純化したものが聖なるものなのだ。その純なる被り物を剥がせば、その下からはドロドロとした汚物が流れ出るだろう。

神が聖なるものであるのは、糞が聖なるものであるのと同じ根拠によるにすぎない。

階級を落とす

「低級唯物論」。
それは結局のところ、観念論にすぎない一般的な唯物論に対するバタイユの応答だ。観念が隠した汚物や怪物を扱うのがバタイユの低級唯物論である。

それは主に、物質の格を下げ[=分類を乱し]、古典的唯物論の哲学的な魔の手から物質を奪回することである。古典的唯物論は、姿を偽った観念論にほかならない。

バタイユは、どんな形であれ、物質を観念化の魔の手から救おうとする。
バタイユは、詩を拒絶したが、それは詩もまた物質の観念化に力を貸すものだからだ。
バタイユ自身は逆に観念化の魔の手から物質を解放しようとする。それが彼の低級唯物論だ。

低級唯物論の働き(アンフォルムはその最たる具体的な表れである)は、階級を落とす[=分類を乱す]ということである。つまり、あらゆる存在論的な牢獄、あらゆる[かくあるべき](役割モデル)を低級なものへと引きずりおろして解放することである。

このようしてみれば、自然は逸脱しかしないし、怪物しか産まないということがわかってくる。
いや。わかってしまってはダメなのだ。バタイユの否定はそんな風な理解で絡みとれるようなものではない。より強度をもった否定がバタイユだ。安易な理解に回収されることなく、どこまでも階級を落とし、分類を乱す。
とうてい、そこまで行き着くことはできないけれど、時には、バタイユ同様に、観念の牢獄から解放されたものと対峙することは必要かなのかもしれない。

#コラム #エッセイ #唯物論 #観念論 #バタイユ

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