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頭脳というちっぽけな屋根裏部屋で

本をよく買うのはいつものことだけど、最近はちょっと買いすぎだ。
昨日届いたのは、このあたり。

『江戸川乱歩傑作選』
『バビロンの架空園』澁澤龍彦
『椿説泰西浪漫派文学談義』由良君美
『探偵小説の室内』柏木博
『都市の解剖学』小澤京子
『ラインズ』ティム・インゴルド
の6冊。

でも、その前に先週もこれだけ買っている。

『文学論(上・下)』夏目漱石
『殺す・集める・読む』高山宏
『マニエリスムのアメリカ』八木敏雄
『メイキング』ティム・インゴルド
の5冊を。

このリスト中の半分くらいは19世紀末に関わり、さらに当時の推理小説と関連している。
19世紀末を生きた漱石、その19世紀末に発明された推理小説を扱う高山さんの本に、すこし遅れて、けれど、その遅れを取り戻してあまりある推理小説の本質を捉えた乱歩、さらに メルヴィルやポーといった19世紀アメリカを扱った八木敏雄さんの本、柏木博さんの本は得意のインテリアデザイン史を19世紀末を象徴し、推理小説とは切っては切れないあいだがらの室内とつなげた作と期待する。

そのうち、高山宏さんの『殺す・集める・読む』にこんな記述がある。

こうしてホームズの「頭脳というちっぽけな屋根裏部屋」はヴィクトリア朝英国きってのデータベースと化していく。「頭脳というちっぽけな屋根裏部屋には、すぐ役に立ちそうな道具だけしまいこんでおいて、あとは必要ならばすぐだせる書斎という名のがらくた部屋に放りこんでおけばいいのだよ」。世紀末「室内崇拝」がこんなとことにも幾重にも、有効なメタファーとなって入りこんでいるというわけだ。

コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズについての言及だ。

この写真にあるとおり、すぐあとに百科辞典の話が続くから室内の話であると同時に、推理小説らしい"データ(収集)"の話であるのは明らかである。

ホームズは室内で推理する。もちろん、現場に行ってあらゆる情報を収集してくるが、それらの素材をもとに推理を組み立てときにはもはや現場にいる必要はない。むしろ、『アリス狩り』で高山さんが書いているとおり、距離の離れた疎外された場所の方が世界を読む=推理するには都合がよいのかもしれない。

観察すること、相手を対象化してこれを「読む」行為には、まず対象との距離が、相手をものとして見る視線が大前提であるということだ。世界から疎外されていればいるだけ、従ってこれを細密に読むことができる。世界から自らを隔絶し、世界をものと化してこれを収集した世紀末室内文化が、同時に細部に凝り、読むことに長けた文化であったことは偶然ではないのだ。

19世紀ヴィクトリア朝の時代、室内をぎゅうぎゅうにすることが流行した。それは1865年から翌年にかけての大コレラ禍に代表されるような病禍がたびたびロンドンの都市をおそった時代であり、人々が危険な外を避け、室内に過ごすことが多かったという事情もある。
けれど、その理由だけでは「ぎゅうぎゅう」にはならないわけで、さらに「倦怠」というキーワードが連なる必要がある。

ふたたび『アリス狩り』より。

密室とその内部での精緻の狂熱は、ヴィクトリア朝固有のあの有名な生の倦怠の結果であり、そして新たな原因でもあった。『不思議の国のアリス』ではアリスの退屈が引き金となって忽ち夢見が始まり、最後に彼女はもう一度「面白くない現実」に帰ってくる。『鏡の国のアリス』冒頭では冬の密室、暖炉と安楽椅子の倦怠、意図をほどく繰り返しが一挙に少女を夢へと引きこむ。夢文学部屈指の名文とも称すべき催眠的な文章である。アリスは夢の国でさえ「退屈だ」を連発する。

アリスの作者ルイス・キャロルは、ホームズの作者コナン・ドイルとまさに同時代である。キャロルとドイルがこの倦怠も共有しているのは、『殺す・集める・読む』』のほうに「探偵稼業も博物学趣味も、要するにポスト産業革命時代の鬼っ子、「倦怠(アンニュイ)」からの逃避である」と書く高山宏さんの言葉からも知れる。ぎゅうぎゅうなのは、この倦怠が忍び寄るのを隙間なく何かで埋めて、避けようとするしぐさだろう。

倦怠を嫌い、ぎゅうぎゅうにする強迫観念は、だから何も室内装飾に限った話だけでなく、19世紀においては文学作品や絵画作品にもみられる傾向だ。
ピーター・コンラッドの『ヴィクトリア朝の宝部屋』はこのあたりに詳しい。

「細部の宝庫ではあるが」とヘンリー・ジェイムズはジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』について言っているー「しかし、それは無頓着な全体である」。同じことがヴィクトリア朝の全体について言えるかもしれない。ヴィクトリア朝の芸術作品はしばしば、その時代の室内と同様、できるかぎりぎゅう詰めにすべき入れ物であるように思われる。

ぎゅうぎゅうの際たるもののひとつがシャーロック・ホームズ・シリーズを含む推理小説となる。柏木博さんの『探偵小説の室内』も読んでみようと思ったのは、この流れでだ。

では、なぜ、この19世紀末に推理小説は誕生したのか?という問いに対して、高山さんは、こう答えている。

その作者たちが生を享けた19世紀末は猛烈な断片化の時代だった、と言っておけばひとまずは答になるだろう。まさに炯眼のジョージ・ニューンズの言った「断片(ティット・ビッツ)」の時代。その断片を「データ」として引き受け、それに「意味」を与え、もってふにゃふにゃと不定形の世界に〈解決〉と〈形〉とを与えようとした動き、それがたとえばジャンルとしての「推理小説」の〈発明〉をうんだのである。

とにかく物や情報の量が爆発的に増えた時代だった。特に1851年前後は象徴的だ。世界初の国際万国博覧会、ロンドン万博が開催され、英仏間の海峡を海底ケーブルを使ってつないだロイター社ができたのも同じ1851年。もうひとつ忘れてはいけないのは、すこし前に紹介したメルヴィルのクジラ百科事典ともいうべき『白鯨』発表もその年だ。
その前年にはホームズ作品にもたびたび登場するピンカートン探偵事務所が設立されるし、1852年には世界初のデパートであるボン・マルシェができた。
とにかく、神の死が宣言されたのち、これまで言葉、意味をつなぎとめていたものがなくなり、あらゆる情報や物が断片化している状況での、編集や陳列のしくみが登場しているわけだ。むろん、『白鯨』も同じ時代の流れのなかで書かれている。
ホームズの活躍がはじまるのは、このおよそ20年後のこと。
言葉のつながりが無意味(ノンセンス)となった様を描いたのがキャロル、つながりが失われた断片を読む様を描いたのがドイルということになるだろう。

高山さんはこの19世紀末を「不確実」な時代と呼ぶが、むろん、それは当時の問題であるだけではなく、21世紀のいまきっと繰り返される問題である。

そのことは、高山さんの本に引用されるホームズ・シリーズの『5個のオレンジの種』からの次のような引用からもわかる。

「理想的な推理家というものは、さまざまの意味をふくむ1つの事実をしめされると、そこにいたるまでの一連の出来事をことごとく推察するだけではなく、さらにまたその事実から発展してゆく将来の結果もみな見とおせるものだ」

ここにAIが真ん中に据えられたデータ・オリエンテッドな21世紀をみてとるのは容易い。それは単に人が人工知能に置き換わるという話ではなく、ホームズ自体、19世紀末におけるAIのようなものであったわけだから、むしろ、そのアップデートとしてみた方がよいわけだ。

間違いないのは、超越を欠く事物横溢の熱死状態の密室と化してしまった16世紀末以来の「近代」という展望であり、終りないディテールの累積という形で、部分ばかり見えて「全体」が見えなくなった世界で、部分を按配して仮想の全体に繋げる祭司の奇跡のような肉体行動と、そのことを紡ぐテキストの誕生である。主知的思弁の極とも言うべきマニエリスムの出発点が「マヌス manus」即ち「手」である時、頭と化す手こそこれからのアートだと言い放ったミケランジェロの言葉を思いだす。そう、それ即ち他ならぬ名探偵シャーロック・ホームズの存在様態でもあるだろう。

『アレハンドリア』で書く高山さんの「頭と化す手」という示唆は、自動機械としてのホームズ、あるいは、より一般化してバラバラなものをつなぐマニエリストの仕草を考える上でとても参考になる。

だとすれば、この19世紀的な室内/室外あるいは開く/閉じるという関係はいまなおバラバラに断片化した情報をどう読むかを再考する際のヒントになるのではないだろうか? xR的なテクノロジーにより、頭脳というちっぽけな屋根裏部屋同士さえ相互に曖昧に溶けあって、内外の境界も書き換えられようとしている今、いかなる自動機械が意味を生成するために必要か?を考えてみても良いだろう。さて、それをどうデザインするか?だ。

P.S.
ちなみに、いまもう一冊、同時に読み進めてるのがウンベルト・エーコの『完全言語の探求』。これもまたバラバラになった言葉をどうすれば統一(完全化)できるか?ということを考えた人々の歴史を追ったという意味で同じ流れにあることに気づくだろうか?

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