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アンリ・フォシヨンと未完の美術史:かたち・生命・歴史/阿部成樹

「敷衍」という語を「ふえん」と読むことにこの歳になってはじめて知った。
「ふえん」という言葉は知っていたし、「敷衍」という文字も見たことはあるにもかかわらず、だ。

フォシヨンの言うところを敷衍すれば、知的探求を導くのは小心な受動性よりも、大胆な積極性であるということになろう。

「敷衍」が「ふえん」であるのを知るきっかけは、阿部成樹著の『アンリ・フォシヨンと未完の美術史:かたち・生命・歴史』にある、この文中に「敷衍」が登場していたからだ。

上のテキストを入力するために読みを調べた。そこではじめて「敷衍」という文字と「ふえん」という音を持つ言葉が結びついたのである。

「知的探求を導くのは小心な受動性よりも、大胆な積極性である」というのはもっともだ。
待っているだけでは何も新たな知は得られない。みずから積極的に未知の領域、謎めいた対象を探求しようと動かなければ、新たな知の獲得など望むべくもないからだ。

大量生産に適した思考と行動の方法としての全体主義に批判的距離をとる

では、この納得感のある内容は、どんなむずかしい表現から敷衍されて、理解しやすい表現に落とし込まれたのか。元の議論は、こういうものだ。

彼は現今の世界を脅かす全体主義の本質を「精神の単一化」であるとし、むろんそれをドイツと結びつけるのだが、同時にそれが産業社会の必然的な到達点でもあり、それゆえにこの危険を免れ得る近代社会がほとんどないことを指摘する。(中略)真の問題は、学問をふくむ広義の「方法」であるだろう。つまり産業社会における大量生産に適した思考と行動の方法から批判的な距離を取り、精神の単一化とは対極をなす方法を明らかにすることが必要である。学問的方法もまたこのように問われなければならないが、それはフォシヨンによれば、精神、手段、手順の多様性を基礎とし、機転や危険、そして失敗をさえも受け入れる柔軟なものでなければならない。そして仮説や実験を導くのは、従順さというよりは才能という名の本能である。

ふえん【敷衍】
意味のわかりにくい所を、やさしく言い替えたり詳しく述べたりして説明すること」

まさに上の文章に比べると、最初の引用文がどれだけわかりやすくなっているのがわかるだろう。

しかし、わかりやすさにばかり頼っていたら、それこそ知的探求からは程遠くなる。わかったつもりになれば知ろうとしなくなる。にもかかわらず、人々を「小心な受動性」へと導くのは、「大量生産に適した思考と行動の方法」である。
ここで指摘されているのは、まさにそのことだ。

フォシヨンが「精神の単一化」と呼ぶのは、単一な起源を設定して、そこから直線的な発展を想定する近代の全体主義的思考である。
「大量生産に適した思考と行動の方法」とは、全体主義へと導く方法でもあり、同じ文化・思想を共有した組織員とのみ活動をしようとするクローズドな方向に人々を促す傾向がある。自分たちに相容れない者たちを除外し、非難し、攻撃する。フォシヨンの時代、それはナチズムとも結びついた。
みんながわかるように表現すること、みんなが欲しがるように商品をつくること。わからないやつ、欲しがらないやつは排除する。そういう発想につながるのが、「大量生産に適した思考と行動の方法」だ。

でも、そうした全体主義につながる「大量生産に適した思考と行動の方法」はいまも拭い去れたわけではない。いや、むずかしいことを誰かに敷衍してもらわない限り、自分で努力して理解しようと知的探求を試みなかったり、同じ組織文化を共有した仲間のみの閉ざされた職場で、決まった業務プロセスの中でしか仕事を進められなかったりするのは、まさに全体主義の罠に取り込まれたままである。
だから、このオンデマンドで様々なコンテンツを手に入れられる非大量生産的なインターネットの時代に入って久しいいまなお、人は他人を簡単に非難できてしまうし、自分と異なる意見を持つ人を束になって攻撃しようとしてしまうのだろう。

そうした大量生産的思考のもたらす全体主義的傾向に、もう100年近く前に距離を取るための方法を提唱していたのが、この本の主人公であるフランスの美術史家アンリ・フォシヨンだというわけだ。

時間とはその本質において生成である

そういう思考のベクトルをもった人に僕が惹かれないわけがない。
そもそも、フォシヨンの次のような時間や歴史についての見方がしっくりくる。

なぜなら時間は、その本質において生成であり、歴史とは「可塑的な持続」、すなわち変化だからである。

歴史は、ナチズムが想定していたような民族主義的な単一の要因によって決定論的に作られるものではない。それはさまざまな流れが折り重なって生じる変化の層だ。複数の生成が織りなす可塑的な動向である。

「歴史とは、早すぎること、時宜にかなっていること、そして遅すぎることの葛藤である」とフォシヨンは言う。

単一で線形的な時間などないし、変化そのものがダイナミックなものである。
芸術の分野においても、ある歴史的様式が別の様式に取って代わられるわけではない。新古典主義の側でロマン主義は展開したし、ルネサンスが始まっても中世美術はその横で変わることなく展開していた。

しかも、それらはどこか特定の国で、特定の民族によって生成されたものではない。ナチスが前提とするような民族の優位性などというものが、歴史を動かしたことなどは一度もない。

「フォシヨンは、民族性、国民性そのものもまた歴史の産物であることを明確に指摘するだろう」と書かれているとおり、ナチスが歴史的変化の原因に設定した民族性そのものが歴史の産物でしかない。
そもそも起源などはないし、ゴールもない。
そうしたフォシヨンの示す歴史観、いや世界の捉え方には共感する。

動き続ける歴史のなかで

フォシヨンに関する、この本を読み終えたいま、新たに物理学者であるエイドリアン・ベジャンの『流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則』を読み始めたが、そこにこんな記述がある。

動くもの、流れるもの、突き進むものはすべて、配置や道筋やリズムを変えることによって、しだいに動きやすくなる傾向と、動き続ける傾向を示す。進化するこの流動構成とその終焉(死)こそが自然であり、生物・無生物の2領域を網羅する。

まさに、こうした自然の物理的な流れそのものである世界において、人間の世界だけが生成し変化し続ける歴史を欠いたものであるわけがない
いわゆるスタティックな環境を前提とするような仕事は、こうした物理法則を無視したものなのに、何故平気でそうした思考を疑いもせずに維持できるのか、ほとほと疑問に思う。

しかし、フォシヨンの時代のすこし前までもそうだった。
あらゆるものが古代を源泉として展開するものと考えられていたのだった。古代こそが見習うべき時代であって、それ以降の人間は常に古代から学ぶべきものとして、学問も体系化されていた。固定した世界のあり方が想定されていた。

それがフォシヨンが学生時代を過ごしていた時代のフランスで、「古典中心の伝統的なものからの脱却が目指された」ことで変わり始める。
その流れを牽引したのが歴史家たちで、「古典を生んだ古代世界の歴史的相対化」により「古典の普遍的な価値という前提から抜け出す」ことを可能にした。
「歴史的思考こそが近代的・科学的思考の重要なので基礎あるいは範型と位置づけられ」ていたのがフォシヨンが生を受けた19世紀後半のフランスだった。

交流と衝突というダイナミックな動きを歴史に持ち込む

地域や民族に文化のありようを固く紐づけ、固定化してしまうこと。
フォシヨンが批判的に参照する19世紀後半の美術史家イポリット・テーヌなどもそうだった。テーヌは、ファミーユという概念を用いて、「ひとりの芸術家は決して孤立しておらず」、「地域と時代を同じくする」ファミーユに所属すると考えた。
その民族主義的な観念を芸術の様式と結びつけた固定的な枠組みのなかにテーヌは歴史を押し込んでしまう。

テーヌの芸術観においては、ある時代は変化という流れの中に置かれることをやめ、動かない環境と化す。そしてある時代の芸術は自らが属する時代と和合し、居心地よく休らう。彼の芸術哲学にとってひとつの時代、ひとつの民族に属する文化の諸領域は、互いに破綻なく一本の紐帯で結び合わされているのである。

というわけだ。

しかし、先にみたとおり、民族や国家自体が複数の要素が交差しながら生成される歴史的産物であると考えるフォシヨンはこのテーヌの考え方を批判する。
「フォシヨンは、こうした調和的な歴史観にダイナミックな動きを、そしてそれを可能にする交流と衝突を持ち込もうとする」のだ。

フォシヨンより20歳ほど年長の同時代のフランス人哲学者であるアンリ・ベルクソンは「過去は観念にすぎないが、現在は観念――運動的なのである」と『物質と記憶』で書いている。過去は静止した画像=観念のように見えても、現在においてその観念は常に動いており、運動的である。
このベルクソンの考えに相応するようなことをフォシヨンは考えていた。
「時の作用は、そうした生き生きとした多様性を鎮静させてしまう」と本書の著者の阿部氏は書いている。まさに運動的であることを失って観念のみとなった過去である。こうなってしまうのも「後世の特権とは、忘却と統合によって、ことを単純化することにあるから」だ。

しかし、フォシヨンは歴史を流れとして、ダイナミックなものとして見る。
そのときの視点は個人にではなく、社会を形成する人間集団へと向かう。個々それぞれに異なる個人が社会を形成するさまは、1つにまとまった動きであるというよりも、多様な動きを残した複雑なものになる。

歴史家にとって「本当に重要なのは、われわれ自身のあるひとつの側面ではなく人間の全体性」なのであり、過去の証言は生きた声として、その豊かさのままに受け止められねばならないとされるからである。フォシヨンにとって歴史は、その豊穣な複雑さをありのままに捉えることにあるのであって、それらを整理し定義することではない。

フォシヨンとほぼ同時代を生きたフランスの作家シャルル・ペギーもまた、先日紹介した『クリオ』のなかで、同じように単一の歴史の流れではなく、さまざまな個人が織りなす時の流れに目を向け、「老いはその本質からして平面(単一の平面)の欠落を招く活動であり、そこでは無数に重なる現実の平面に沿って、すべてが遠くへ押しやられていく」と書いている。

そうした無数の平面はまた、出来事が継起的に、というよりもむしろ連続的に完了した平面でもある。

社会における複数の個人各々が連続的に織りなしていく「無数の平面」。
それを平坦に均してしまう思考は、あまりに歴史的視点を欠いている。

複数の歴史を敷衍してしまわない

歴史は自然科学のように物事を単純化して法則を見つけるような作業とは異なるものだと、フォシヨンは考えていたのであろう。
人々がみずからの生をもって刻んだ歴史を単純化して、「敷衍」してしまうことを彼は避けたのだった。

個を超えた社会の次元で文化に視線を向けること。かたちそのものの中に文化の結実を見て取り、歴史におけるその生を追跡すること。そして何より、最終的に人間の総体的な理解を目指すこと。そうした思考を共有する者にとって、美術史と人類学との区分は、限りなく暫定的なものであったように思われる。

人類学、そして、社会学という人間に目を向ける学問が歴史上、登場し、発展したのもこのフォシヨンの生きた時代のすこし前からのことだった。人類学が反民族主義的な方向性を示しやすいものであったことも、フォシヨンの歴史の見方に重なるものがある。

例えば、「アメリカ文化人類学の礎を築いた人類学者の一人フランツ・ボアズ(1858-1942)の弟子」であるアルフレッド・クローバーの反民族主義的な思考もそうだ。クローバーもフォシヨン同様、個としての人間にではなく、社会に目を向ける。

クローバーは1917年に発表した画期的な論文「超有機体」において、文化を個を超えた集団の問題として捉えると同時に、それを民族主義から論理的に切り離すことを企て、おそらく成功した。彼によれば、生得的で遺伝に左右される特質を持つ有機体(生体)に対して、文化的なものが生得的でなく、遺伝的形質でもないことは、例えば言語習得の一例を考えてみれば明らかである。文化を担い、次代へ伝えていくのは有機体ではなく、社会である。文化とは社会的に共有され、伝達・蓄積され、その過程で変遷する自立的なものであり、個体としての有機体にとっては外的なものなのである。

個ではなく社会に目を向けるということは、フォシヨンにとってもクローバーにとっても個という存在を無視するということではない。
むしろ、異なるそれぞれの考えをもってそれぞれの異なる生を生きるたくさんの個人が織りなす複数の層をもった社会だからこそ、単一的ではない、いろんな表情をもった文化の担い手になりえると彼らは考えたのだ。

それは民族主義が文化を単一的な視点で敷衍してしまうのとは正反対である。
フォシヨンやクローバーのみる社会における文化は、まったく異なる様式をもった芸術同士が同居することが当たり前のように許される多様性のある文化だ。

いまの時代に、オープンイノベーションが「多様性」というキーワードとともに語られることからもわかるように、文化は画一的な民族からではなく、多様性をもった人々のなかでこそ育まれてきた。

だからこそ、「起源」ではなく、「変遷」に目を向けなくてはならない
歴史は変化そのものだし、それは僕ら人間が常に変化し続けるものだからだ。
本来的に保守的な人間などは1人もいない。

文化にとって重要なのは起源ではなく、その後の交流と変遷である。文化史とは、こうした文化の変遷と多様化を、ちょうど進化生物学が種の系統分岐を追跡するように追っていく、動的なものであるとされる。実際、クローバーにとって、歴史研究とは変化の研究に他ならない。そしてこのように文化を固定した類型と見るのではなく動態の中には考察する姿勢もまた、反民族主義的文化観とつながりを持っている。民族主義的文化観は、例えば「ラテン的」「ゲルマン的」といった変化のない常数を文化的特質の中に見出そうとするからである。

僕らはいまこそ「大量生産に適した思考と行動の方法」である決定論的な思考を捨てるべきだ。複数の個人各々が連続的に織りなしていく「無数の平面」から生まれる多彩な変化を受容する思考を身につけるべきだろう。

変化の時代である。
それは歴史の時代、時間の時代であると僕は思う。





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