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平成はどこにいったんだろう

 仕事で領収書を作成する時、既に印字されていた「平成」の文字に二重線を引っ張って「令和」の文字を書き足す。その瞬間、私は毎回ショックを受けているような気がする。なんだか悲しくて、行き場のない気持ちになるのだ。

 新元号が発表された時、言葉の響きや意味が正直あまりピンと来なかったのだけど、平成生まれの私は初めて元号が変わるという大きな体験に心を躍らせていた。周りの人は「元号が変わっても何も変わらないよ」と冷静だったので、私は少し肩身の狭い思いでいた。心の奥底で、今の生活に、今の重たい日本の現状に突破口を求めていたのかもしれない。新たな変化が心地よい風を与えてくれるような、そんな日々が欲しかったのかもしれない。

 令和になってから一ヶ月以上経った今、「結局何も変わらなかった」と少し落胆にさえ近い思い抱えていた。むしろ「平成はどこにいってしまったんだろう」とよく分からない言葉を何度も何度も日記に綴っている。平成は終わった。平成を生きていた私達の時間は過ぎ去った。私達はいつも時の流れに従順に生きていくことしかできないのだ。過去を生きることも、未来を飛び越えて覗きに行くことも出来ない。ただ今しかない。私はそんな当たり前のことに今さら頭を抱える。

 私の人生の中の平成で起きた嬉しかったこと、悲しかったこと、辛かったこと、恥ずかしかったこと、良い出来事も二度と振り返りたくない嫌な出来事も結局は過ぎ去ったのだ。元号というひとつの視点を利用するなら、「昨日」や「1年前」というような概念よりもそれらは強く、切り離されていったように感じる。

 あれだけ「令和」のはじまりに期待をしておきながら、いざ何も変わらないと分かると「平成」に寂しさを覚えるなんて、私はなんと単純なのだろう。単純だからこそ、元号が変わるということに大きな意味が欲しくなるのだろうとも思う。だが今回の恥ずかしい出来事から、分かり得たこともある。人は「今」しか生きられないこと、そして私の中に変化を求めている気持ちがあったこと。それならば私はもっと自分の求めていることを掘り下げてみよう。そして少しでもそれを実現できるよう自分を変えよう。仕事の出来ない社会人3年目にだってきっと何か出来ることがあるはずだ。誰かの役に立てる日がきっと来るはず。そう信じて、私は詩だけでなく、こうした気持ちを綴ったnoteも書き残していこうと思う。今後はより深く詩を愛し、自分の感性がいつか社会生活に交わることを祈り、手探りで気持ちを置いていけたらと思います。

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