変化への渇望とあり続けることの退屈

 私は、自宅に帰るバスをひたすら待っていた。ちょうどいい時間の便がなかったため、1,2時間程だろうか、ひたすらに待っていた。退屈しのぎにTwitterを開こうとするも、スマホの充電は残り1%となっていた。それならと手元の某知識情報概論の教科書を手に取る。図書館情報学について広く浅く触れているその本をぱらぱらとめくりつつ、図書館という場の価値を考えることで時間をつぶそうと試みた。この文章はその出力である。
 図書館には多くの本が整理された状態で置かれている。整理というより、分類か。分類されているということが重要だと。分類とは学問の連なりの具現化を試みるものだ。ここには、学問の『場』が醸成されている。そしてそれは、私たちの精神にもまた影響を及ぼすものだ。図書館に来れば、私たちは読書人のように、知識人のようにふるまうことができる。あるいは、勉学に励む努力家のようにも。そこにどのような意味づけを行うかは人それぞれだが、ともかくそれは知の営みと結び付けられる。空間が私たちを仮規定すると表現してみる。
 俺の考えでは、個々の人間は混沌であり、集団は秩序である。人間のなかには相反するさまざまな多重要素が存在する。空間はそれに方向を与える、ととらえる。図書館が私たちに知を求めさせるように。あるいは、体育館が私たちに活動を促すように。混沌たる私たちは、しかし混沌に甘んじ続けることはできない。ある種の方向付けがなされないと、不安を覚えるのだ。混沌とはつまり可能性である。しかし、可能性が可能性のままである間は全く意味をなさない。無意味は不安を呼び起こすものである。少なくともなんらかの『場』にいれば、何者かではあれるのだ。
 だが、悲しいかな、私たちはまた何者かであり続けることも容易ではない。読書人であり続けることはできない。ある閾値を超えると、外に飛び出して思い切り歌いだしたくなったり、走りだしたりしたくなる。あるいは、部屋でだらっとゲームでもしたくなる。ある指向性が生まれたとき、同時に可能性も潰える。可能性が消え去ることもまた、不安の根源となる。そしてまた、それは退屈でもある。あり続けるとは、変わらないことだ。私たちは変わらないことに対して耐性がない。それでいて、自ら変化を起こす力もない。だから、変わるための『場』を求めるのだ。変わるための『場』をいくら用意しても、それは一時しのぎの仮宿にすぎない。図書館の存在もまた、数ある場の一つでしかないのだろうか?
 おそらく、それでいい。すべては突出したものではない。知と結びつく場。それ以上でも以下でもないし、そしてそれは恒久的な影響を及ぼすこともほとんどない。だが、私たちの生に知の風を吹きこむことができる。一瞬の変化でも、そこに価値はあるのだと。
 そんなことを考えたところで、バスが来た。退屈が高じると、どうも思考がちょっと妙なところに飛んでしまうらしい。もう少し、土台をしっかり積み上げる必要がある。

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