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些末なログが鋭利になる

これは普遍的な話になる。

今年の抽象的な抱負の一つにログを残す(一行だけでも良い日記的な、やったことを記す)事がある。一月の生活ログは58%位埋めれた。年始が反省。他にも、仕事のログや、趣味のログ、コミュニティのログ、情報を収集し、データ分析風をやっておきたいなあと考えている。とにかく、ログというものに意識が向いている。

しかし、この些細な一行を残す事になんの意味があるのか?経験として処理されれば良いではないか?ログを残さなくても重要度とか感覚で分かっているのではないか?という疑問が芽生える。例えば、廊下をモップで掃除する。食材を買う。適切な人員配置の為の仕事量と時間を残す。過去の作業履歴を見る。人のミスを指摘した際に内容を残し、その内容を集計別に分類し、馬鹿らしくも(この舐めた態度が良くないぞ自分。重要である)5W1Hで整理する。
そんな些細なログ取りを放棄して、ノートに板書をしない学生の様に時間が過ぎていく。それら疑問を、うるさいやるんだと、自分を鼓舞して汚い文字から書き始める。  

それなりに、一般的なデータを見てきて、ログに意識が向いている中、ログとは大事だよなと感じた点が二つある。

一つ目は、ログを残す事が迫力に繋がること。二つ目は、社会人として会社組織に勤める中で些末なログを集めて数値化すれば理論的になり、それが社会でも通用するイメージが湧いたこと。

一つ目は、人は、少なくとも私は、録音とか記録とか物体として残ってしまう事が不快である。なぜか安心が脅かされて、下手な事は出来ないと感じるからだ。仮に、裁判なり、人に意見を申し立てる上で、ふわっとした感覚だけで〇〇が辛かった、なんて言っても、言葉として弱く。日付や、誰がいつ、どんな事をして何をしたかを、詳細に残し、データの推移を突きつけた方が、迫力が着く。内容証明郵便とか良い迫力だと思う。
人は自分が行なっている事を感覚として処理しても、その認識は不十分である事が多く、データとして反映した時に、より正確に事実を納得せざる得なくなる。そんな面倒くさい事をしてくる人は油断ならないと、私は思う。

二つ目は、仕事の会議で資料を見る機会が大幅に増えて、ふと会議中だが、立派な様に見えるデータも、一つ一つを分解すれば、些末な一行の集大成で、面倒くさがらずに、ログを残せば、社会的な組織で堂々と話し合いが出来る、社会的に認められるデータになるもんだと、社会に通ずるイメージが湧いた。

些末なログも、収集して整理すれば、PDCA的なアップデータが出来て、時に、鋭利に闘えるデータにもなり得る。

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