美意識の奴隷であり続けること、あるいは白線を踏み外すと死ぬアレ

たなかです。noteを毎日書くぜ!と思っていましたが早速何日か空いてしまいました。まあそんなものです。高い目標をもってエンジン全開!!みたいな感じで早々に挫折するよりも、のんびり低空飛行を続けていたほうが気づけば遠くにいけてたりします。

そもそも今のぼくがどこに向かって飛んでいるのかというのはめちゃ謎なのですが、まあ人生はとにかく移動することが大事ですのでね、今日もやっていこうと思います(この話も今度書くわね)。ほんとは夕方に書こうと思ってたのですが、macの充電が切れておりコンセント使わせてくれるカフェを探してさまよってたら疲れたので、なんだかんだとこの時間になってしまいました。夜のほうが筆は進みやすかったりするので、まあよいかなと思います。

本題にはいって、たなかというのは、何度も言っているのですが、「積んできたキャリアを破壊しても、幸福な人生をおくることができる」「めちゃ嘲笑を買っても、まあ別に大丈夫」「人生においてどんな選択をしようが、それはあなたの人間的価値をなんら左右しない」などの主張を世の中に対して行うために存在しています。それは、直接こういう言葉を発信するというよりもむしろ、のほほんと暮らすことで伝播させたいなあと思っています。

つまり、上に挙げたコンセプトを表現するためにその行動は適切か?というジャッジが毎回行われているのです。あるいはもっと上のレイヤーで、たなかはどう在るべきか?という基準があったりします。たなかを運営する際のルールブックというか憲法というか、そういうものが実は存在しております。

ぼくのなかで「積んできたキャリアを破壊しても、幸福な人生をおくることができる」という主張をするには結構厳格な縛りがあって、「誰がどう見ても幸せだろう」という状況になってはいけないのです。具体的に言うと、安定した暮らしを確立してはならない。「何者でもなくてもかまわないのだ」と胸を張って言うために、何者にもならないことを選んでいる。どれもこれもお試しでやってみるだけ、本腰をいれて何かをしてはいけない。そういう制約を設けてたなかをやっている。

意味わかんないよね?本末転倒だ、自由になったはずがまた縛られている。それも、自分で自分を縛っている。アーティストとして高貴にあらねばとかですらなくて、むしろまともになりすぎてはいけないという縛り。

何がもっとも意味わからないかというと、別に誰ひとりそれを望んでいないことなんだよね。たなかが安定した暮らしをしてようがしてなかろうが関係ないし、むしろ応援してる人なら安定しててほしいと願うのが普通だろうし......。つまりそんなのどうでもよいこだわりだ、ということで。話がやっとタイトルに回帰する。自分のなかで、たなかを運営する上で行っているこのジャッジは、客観的に見て無意味なこだわりだし、他者からの興味関心も得られない。

ではなぜやるか?自分の美意識が要求しているからです......。自分のなかのもうひとりの自分が命令してくるのだ。「何者かでありながら、何者でもないことを肯定することは不誠実である」。わかっている。この声は誤っている。しかし、仕方ないのだ。自分の体内から聞こえてくる声に抗うことはできない。自分自身を裏切ることは、これ以上ないほど辛いことだ。

おのれの美意識の奴隷であり続ける。他人から見てどうとかこうとかではない。まったくない。おのれの主人はおのれではなく、育んできた価値観なのだ。もう仕方ない。そういう生き方を選んでしまった。

でもまあ、こういう感覚ってみんなあるよね?他人から見たらどうでもいいこだわりがどうしても手放せない。それさえ無ければ、もっと生きやすいのに......。そんな縛り。しかし同時に、そういうこだわりが自分を自分たらしめているとも思う。このこだわりを捨てたとき、そこには全く違う人間がいるような気が......。

と見せかけて、実はそんなことないんじゃないの?案外たいしたことなくて、何も変わらないし、ただ暮らしやすくなるだけなのかもしれない。小学生の頃やっていた、白線の上を歩かないと死ぬアレに夢中になっているだけなのかもね。などとも思う。

以上です。

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ちなみに、自分でこの縛りについて言及することはたなか運営ルールブック的には禁止行為じゃないの?という疑問を抱かれる奇特な方もいらっしゃるかもしれないのであらかじめ回答しておくと、アリである。メタ的な言及もむしろ自由度の高さを表現するのに一役買っている、というちょっと強引な理屈でアリとされている。

そもそも、たなかという存在そのものがコンセプトアートであるという前提を共有して、それにどれくらい準じられているかを論じたり評価したりしてほしいので、この話をしないと意味がないのだ。自分しか興味のないこだわりに、ひっそりと自分で囚われまくっているだけなのは流石にかなしいので、興味もってくれなくてもいいので、こうやって書き散らかすことくらいは許してほしいのだ。

ではまた次回。


寿司が食べてえぜ