見出し画像

歌うという行為はあまりに奇妙で

あまたの芸術がある。絵画や彫刻、映像、踊り、小説、詩、すべてを列挙することは難しいが、とにかく無数のやり方がある。
そのなかで自分は詞を書いて歌うという行為に取り組んでいるのだが、歌は、とても、奇妙だ。

自分の部屋の机に向かい、DAWを開き、音量を調整して、C414に向かって歌う。納得いくテイクが出るまで何度も歌ってはそれを録る。
DAWというのは、デジタル・オーディオ・ワークステーションのことで、要するに音楽を作るためのソフトウェアである。C414はAKGというブランドのマイクロフォンである。

録ったテイクを繋ぎあわせる。そしてそれらを加工する。音の大小、ダイナミズムを整えたり、空間系のエフェクトを掛けたり、音程を弄ったりする。こういった作業は、獲ってきた素材を料理することに似ている。しかし、それは声なのだ。自分自身の声を、切って貼って、加工して、ひとつの作品に仕立て上げる。漁師が魚を、農家が野菜を、猟師が肉を獲るように、自分は声を録っている。

冒頭に述べた奇妙さというのは、ここにある。
声というのは形を持たない。単なる空気の振動に過ぎない。だけど肉体が宿っている。ひとりひとりの声はまったく違うものだし、息の使い方や喉の響かせ方でも変わる。あまりに肉体的であり、動物的だと感じる。ひとは皆、形を持たない動物を飼っている。

その動物を捕らえて、切り刻むのだ。自分の体から現れたその振動を。これが奇妙でなくてなんだろう。動物だから、思い通りには動いてくれない。思い描いた軌跡をなぞらせるべく、何度も何度も歌う。そして理想通りの動きを捕らえる。幾度も走らされた獣の息が上がっている。

しかし自分の体には傷一つついていない。手のひらに落とした視線を上げると、そこには歌がある。ディスプレイにはたしかに歌が捕らえられている。怪しげな儀式にすら思える。ミックスとマスタリングを経たのち、自分が排泄したなにかが、堂々たる態度でそこに立っている。さも高尚な芸術のような顔をしている。

思わず、笑ってしまう。録音芸術としての歌たちは、人類の巨大な性癖の集合体のようにも思える。そうした奇妙な文化にどっぷりと浸かった人間のひとりとして、わたしは今日も、動物を望んだ軌道で走らせては捕らえ、切り刻んで繋ぎあわせている。奇妙で愛おしい営み。

寿司が食べてえぜ