自分から型にはまっていく、という善

長い文章が書けない!最近の悩みはもっぱらこれで、頭のなかには誰もが驚き感動し涙が止まらなくなる一大スペクタクルがどどんと鎮座しているのだが、どうにもこうにも表には出てこない。

書きたいものはいくつかあって、とりあえず小説がやりたくてこの前ようやく書き始めたのだが、なんかすぐに筆が止まってしまった。他には、現在の自分の思想を文字にして残しておきたいなと思っている。思想と呼べるほど大層なものじゃないが、今自分がいるポジションは希少だし(貴重だとはあまり思わない)、そういう謎の立場から書かれた文章が世に存在したほうがまあ良いだろう、、無いよりは。

最近はたなかのコンセプトである「すべてを捨て去って何者でもなくなっても、人は幸せでいられる」というのに縛られまくっており、何者でもないことを肯定するためにあえて何者にもならないことを意図的に選択している。あるいは、一時的に手にした肩書きはすぐに捨てるようにしている。物質的にも精神的にも安定して満たされていたら、それは幸福なのは当たり前なので、どこかに不幸であるポイントを用意しておかないと、たなかというキャラクターを演じる上で不誠実だ、という他人からしたらどうでもよいこだわりがめちゃくちゃ自分のなかにあるのだ。

まあそれはまた今度書くから置いといて、どうして長い文章が書けないのかというと、長い文章を書くための型を使っていないからなのだ。たなかは、とくに雑誌とかで連載してるわけでもないので、基本的にSNSを使って発信している。んでたなかはほとんどTwitterをメインでやっている。自分の思考や日常を言語化するときに、Twitterというプラットフォームを利用することが9割とかなのである。

そうなると、脳が140字で区切られるフォーマットに最適化してしまっていて、それで完結する内容のことしか考えられなくなってしまうのだ。書きたいことがあってそのためにTwitterを開いているのではなくて、ツイート画面まで移動してはじめて、頭のなかで漠然と渦巻いていた思考が確たる文字として立ち現れる。しかしこの文字数では、どんなに注意深く書いたとしても、色々な細部を大胆に削ぎ落として、誤解を生みながら雑にまとめることになってしまう。むしろそれがTwitterの良さである、というのは論をまたないだろう。バックグラウンドを全く共有していない人々が、思い思いの言葉を海に放流している混乱に飲み込まれるのは、けっこう心地よい。

しかしまあそれが日々のほとんどを占めるのは割とやばい現象でございまして、みんな本業をこなす傍らTwitterでふざけて遊んでいたりするんですけど、僕だけ違うんですよ。自分にとっては、お客様(誰?)に商品(何?)をお届けする場所としてのTwitterなので、なんかすごく良くない。ツイッタナイズされた言葉たちが、自分が思考するときの主な道具になってしまうと、大味な世界にしかいけなくなってしまうし、長旅ができなくなってしまうのだ。長い思索の旅に耐えうる脳や語彙を失ってしまっている。

つまり、今の自分にとって、この漠たる思考の群れや価値観を体系化して、誰が見てもわかりやすい形にまとめることはすごく難しく思えるのだ。でもたなかはそろそろ終わる気がしてるし、この機にちゃんと書きたいので、長い文章を書く練習をしなきゃいけないなーと思っている。

んで、さっきの型の話を逆手に取り、長文を書かないといけない場所でがんばることで、脳をそういう動き方に変えることができるんじゃないかなと思っている。最近短歌をつくるのが好きだったりするのだが、やり始めてから、31文字のフレーム内に収まるように世界を切り取る、‘第三の目‘的なものが自分のなかに生じたりしている。この感覚はけっこう面白い。だから、長文を書かざるを得ないプラットフォームにやってくると、脳が書くべきことを勝手に探してくれるようになる気がしている。目的にあわせた型にはまりこんでいくという善。

何が言いたいかというと、noteをいっぱい書いていこうと思っていますのでよろしくお願いいたします。これですぐ更新途絶えたらひっぱたいてください。画面越しに。

寿司が食べてえぜ