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世界にひびを入れてしまえ

 無数の問題を抱えながら、今日も世界は回っている。明日も変わらずそこにあるんだろうと思っている。世界は自分が何をしようが変わらない。そういう意味で、世界は安定していると言っていい。沢山の輝きを閉じこめた球体。
 安定した世界の表面はなめらかで艶を帯びている。俺はそれを机の上に載せて眺める。両手でそっと触れて、持ち上げる。奥まで見えるほど透き通っているし、同時に深く濁った何かが渦巻いてもいる。沢山の矛盾を文字通り孕みながら、球体はただそこにある。
 俺は埃まみれの戸棚からこっそり拝借してきたアイスピックを、突き立てる。大きく振りかぶって垂直に……ではなく、先端だけが出るよう握りこんで斜めから。美しかった世界に小さなひびが走る。いたたまれない気持ちになる。これでもう世界は完璧じゃない。俺がそうしてしまった、取り返しはつかないんだ。
 ひびの中に目を向けると、無数の苦悩が脈打っているのに気づく。河原の大きな岩を転がしたとき、小さな虫たちが苔にまみれながら蠢くさまを目撃するみたいな気持ち。
 アイスピックを動かして亀裂を広げる。指先がはいるほどの大きさになったら、一瞬だけ呼吸をとめて、完璧だった球体の中に指を忍ばせる。不愉快なざわめきを肌で感じながら、振動するひとつをつまみ上げる。
 誰にも見つからないようにこの作業は行われる。俺は震える。肌寒さのせいにして、俺は息を吸い込む。月明かりがわずか差しこむばかりの部屋で、世界が解体されていく。取り上げられた苦悩は机の上で脈打っている。てらてらと光るその身体から滲んだ体液が机を濡らして、嫌悪と苛立ちが募る。見たくないものをすすんで直視すること、美しくなさに手を汚すこと。そうしなければ世界は始まってくれない。美しくなさを見つめて煮つめて敷きつめた先に、やっと美しさが顔を出す。
 苦悩の頭と尻をつまんで強くひっぱると、悲鳴のような小さな音が漏れる。小学生の頃に学校で買わされた彫刻刀を引き出しから取り出す。腹のど真ん中を走らせる。苦悩の腹に一本の線が引かれて一瞬のち、線の上を赤黒い液体が覆ってぼやける。線を挟んでふたつの側面を指でつまんで圧力を加えると、液体が溢れたあとに中身が顔を出した。内臓は奇妙な形をしていた。
 やっと痛みを認識したように、苦悩が強くのたうち始めた。それでも追撃の手を緩めるわけにはいかない。こんなことで止めるくらいなら、初めからやらなければいいんだ。
 これは一体誰の苦悩だ? 誰がどんな時にどんな風に感じて、どうやって対処している苦悩なんだろう。記憶のなかにある顔たちをソートして探してみる。見つからない。まあいい。きっとどこかでまた出会う。完璧に見える世界に潜んでいる苦悩たち。俺の手で無作為に取り出されたひとつの苦悩。こいつはどんな景色を持っているんだろう? 安っぽい彫刻刀が内蔵を切り開いていく。
 その時、苦悩が大きな声で鳴いた。糸が切れたみたいだった。命を続けていくうえでほんとうに大事な最後の糸が。
 でも関係ない。うまく回っていた世界を壊してまで始めたこの作業だ、苦悩が多少鳴いたからなんだ。俺はそう呟いてコーラを飲んだ。缶を開けてすこし時間が経っているから、ぬるいし炭酸も抜けている。これくらいがちょうどいい、開栓直後の冷たさと鋭さは、俺を現実に引き戻してしまうに違いない。意識に薄く膜がかかったような感じ。軽度の酩酊と高揚。このリズムをキープしなければこんな作業は続きやしない。
 苦悩の皮は剥かれた。グロテスクな内臓だけが使い古した勉強机に置かれている。一糸纏わぬ苦悩の本質がここにある。時折思い出したように内臓が震えるのは俺を呪っているからか。知ったことか。世界は俺だけのものなんだ。同僚も、おやじも、誰も知らない密やかな時間なんだよ。苦悩の一匹や二匹、生きたまま解剖するくらいいいだろ。俺は惨めな日常を束の間忘れてこの解剖に勤しんだ。ぬるいコーラが不思議な全能感と後ろめたさのカクテルへと変わる。いよいよ苦悩の心臓に彫刻刀を伸ばしていく。気づけば俺は汗ばんでいた。
 つるりとした心臓に、彫刻刀の先端が入り込んでいく。卓上ライトが照らす。わずかな鼓動を指先に感じる。その時、俺の身体に鋭い痛みが走った。ああ、これは俺の苦悩か。一瞬でフラッシュバックする幼少の記憶。仕舞い込んだ景色。消えてしまいたかったあの日。べつに大それたものじゃない、むしろ他人からすれば取るに足らないことだ。それでも俺は死にたかった。消えたかった。どこか遠くに薄れてしまいたかった。
 そんな記憶が、乾燥保存された食品にお湯を注ぐみたいに一瞬で息を吹き返していく。色を取り戻していく。馬鹿みたいな鮮やかさで俺の目を焼いていく。やめてくれよ、なんて叫んでも遅い。俺がはじめてしまったんだ。うまく回っていた世界にひびを入れてしまったんだ。だったらその責任は俺が取らなきゃいけないだろう。見て見ぬ振りして暮らしに戻ったところで、苦悩の震えは俺の脳に焼きついてしまったし、すでに取り返しはつかない。
 俺は俺の苦悩の心臓をすっかり解剖してしまった。この居た堪れなさは、この作業をはじめた時のそれとはまったく別物だ。この苦悩は俺の恥であり、俺の痛みであり、実のところ俺そのものなのだ。
 開かれた心臓、二つの肺、もう乾きはじめた皮、そのすべてを見つめて再構築する。美しい葉で彩ってひとつの作品に仕立て上げる。痛みに震えながらもそこには歓びがあった。数時間の作業のあと、苦悩はもうその原型をとどめず、綺麗な一枚へと姿を変えていた。冷や汗はとまり、俺の苦悩は影になって消えた。窓の外には朝日が顔を出している。俺だけの時間は終わって、世界はまた完璧に回りはじめた。完成した作品を壁に掛けて俺は冷蔵庫に向かった。
 冷えたコーラを飲もう。

寿司が食べてえぜ