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ここにいる人

 なんかね、腹が立つを超えた。もうね、ありがたい。この人がここにいて、ここに来れば会えて、なんでも話せるってことが。
 実はすごく悩んでいた。いつものバーへ向かおうと家を出るとき、住民のひとりから「たぶん5月くらいに出ていきます」と言われた。うちのシェアハウスでは住民がどんどん次に進んでいく。なのに、出ていきたいとずっと言い続けている私はなぜ出ていけないんだろう。ここへの道すがら、ストレスで片目が開かなくなった。痙攣がひどく、きゅっとつむったまま動かない。
 なのに、なのにである。「どうしたんですか?」「あのね、」と話しだしたら、速攻解決。「僕だったらこうする」「僕ならこう考える」とアドバイスをくれた。それが一々腑に落ちて、思考のちょっとした角度の変化で見える世界が変わった。
「ここを去りたくないと思うくらい、今を楽しみましょ」
 そうだね、今でも十分去りがたいけれど、出立の日に「行きたくない」というジレンマに陥るくらい、ここでの暮らしをまずは満喫しよう。そしてどこへでも軽々しく出かけよう。「ここならこんな楽しいことができそうだ」と思う場所と出会うために。

 昨夜というか今朝というか、いつものバーを出たのは午前5時半。
 人が欲するものを与える人が身近にいた。その人は心の機微などくみ取れないように見えるけれど、実際は自分の周囲にいる人の欲するものに気づき、次々と人それぞれに与えていった。
 その人と同じく、いつものバーにいる大好きな人も、相手が欲する言葉や振る舞いを察知して提供する。だから、私が最後の客になったとき、いつも朝まで話してくれるのは、私が話したいと思っているからかもしれない。なんとなく最近そう思い、申し訳なさを感じている。
 実は私は体内時計がそこそこ正確で、時計を見ずとも大体の時間がわかる。最後の客となったら、手元のドリンクを飲み干して帰ろうと思わないでもない。だってすでに3時くらいにはなっている感があるから。
 だけど、そこから話が始まる。大好きな人は隅っこにある椅子に腰掛けると、あんなことこんなことを話し出す。

 ふたりになったときのお決まりの話題がいくつかあるのだが、昨日は初めてのものだった。
 福井で頭が上がらない、お世話になったと感謝している人について。福井に来るきっかけをくれた人、福井に根付くきっかけをくれた人、お金も住むところもないときに居候させてくれた人、今拠点としている辺りを連れ回してくれて人に紹介してくれた人。いろいろあったから周辺はとやかく言ったりもするけれど、僕はこの人たちに感謝しかない。
 その次に来るのは、お店の創生期を支えてくれたお客さんと、粘り強く付いてきてくれるお店の運営メンバー。特に運営メンバーについては、これまで何度も感謝の言葉を口にしてきた。どれだけ厳しいことを言っても投げ出さずにがんばってくれることを、どれだけ聞かされてきたことか。私にではなく、本人に言えばいいのに。
 その下の下くらいに、なぜか私の名前もあった。はたして私は彼に何を提供したんだろう。

 もしかしたら、こんなふうに話すことが私の役割なのかもしれない。
 友だちとはいえただのお客、いや運営側ではない外の存在だからこそ、内の人には言えないこと、内の人に対して思っていることを言えるのかもしれない。もちろん、私だけに言ってるとは限らないけれど。
 写真にしろ、関係者のことにしろ、考えを語ることはよくある。けれど酔いが進むにつれ、思いや気持ちを語りだす。
 昨夜は「もう3時ですよ、帰ろう」と言いながら、再び椅子に座った。立ち上がり、帰りを促しておきながら再び椅子に座るときは、大抵酔っ払っている。そんなときはそれまで論理的に述べていた事象についての自身の気持ちを話し始める。

 昨日もそんなふうに、怒りと悲しみ、絶望、そしてそれでもなお抱いている期待を語った。誰かについてこんなにも頭も心も時間もお金も使うこの人の言葉を、耳をふさいで聞こうとしない人たちに届けたい。この7か月、ずっと思い続けてきた。途中で離脱したけれど、やっぱり届けたい。
 自分の向かう先さえ見つけられない、ポンコツな私に何ができるだろう。逆にできるまで、ここを去らずにいようか。それが叶ったときが、ここを去るときなのかもしれない。
 日々を楽しむ。やりたいことを完結させる。
 誰もいない、午前5時すぎの商店街。うつむきながら来た道を、軽くスキップしながら帰っていった。



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