代わりのない場所

 問いを与えられる場がある。そこは別に学びの場ではなく、そこにいる人も問いを与えているつもりはないはず。だが、私はそこを訪れるたび、問いを与えられたように感じて、その問いに自分なりの解を出そうと考える。
 その昔、人生で一番信頼した友人とともにいたとき、その人もたくさんの問いを与えてくれた。そのときは、その場でふたりで議論をしながら解を見つけていった。それがものすごく楽しくて、もっともっと問うて欲しかった。それは明らかな問いで、それに対して私なりの解を示すと判定が返ってくる。正しいのか、誤りか。新しい解なのか、これまでに誰かが示したものと同じなのか。解答後の議論もまた、楽しみだった。
 今は明らかな問いは、ない。
 場の中で目にするもの、耳にするもの、語られることなどの中から、私が問いを見つけ出す。見つけるというか、得た大量の情報を持ち帰り、処理していく中で自然と問いが浮かび上がってくる。

 足繁く通う場で語られることの半分くらいは「そうそう」とうなずけるものだ。考え方、優先順位、価値基準などが似ているのだと思う。一方、残りの半分は新しいにもほどがあるというくらい、これまでに聞いたことがないもの。興味対象外のことが語られるため、理解がおっつかない。
 その「?」な中から、問いが顔を出す。それはたとえば経営のことを話していたとしても、経営に関するものではない。経営を通して語られる普遍的なことだったり、人間的なことだったり。だから見過ごせない。
 問いに気づいてしまったら最後、解を求めるしかない。だって解が出なければ負けた気になるから。誰も問うてないし、解を求めてもないのだけど。勝手にひとりで勝ち負けを意識してしまう性分。

 今、「取材・執筆・推敲 各人の教科書」(古賀史健著)を読んでいる。買ったまま放置してあったのをめくる気になったのも、通う場で受け取った言葉がきっかけだ。

 インタビューを終え、音源を聴き返し、追加の資料を調べ、深く考えていく。すると、どこかの段階で「わかった!」と思える瞬間が訪れる。この人の言っていることが、やっとわかった。インタビュー中には理解できなかったことばの意味が、ようやく理解できた。この資料に出会ったおかげで、わかった。あの人のことばをきっかけに、わかった。
 わかった瞬間には、目の前が急に開けたような、数学の図形問題が解けたときのような、えも言われぬ快感がある。そして数学の図形問題と同じく、一度解けてしまえばもう、「なぜ、あのときわからなかったのか」がわからない。問題用紙を前に悶々と思い悩んでいた自分が、遠い他人のように感じられてしまう。(「取材・執筆・推敲 各人の教科書」古賀史健著より)

 訪れる場所で話を聞き、家に帰って数日反芻しながら問いを見つけ、その解を考える。解が得られたとき、あのときの話と話す人について「わかった!」と感じる。そっか、私は無意識のうちにインタビューしてたのか!
 今日もまた、パズルのピースがぴったりとはまる感覚があり、さまざまな点が一気につながった。ひとつのピースがはまって全体が明らかとなったとき、得も言われぬ爽快感がある。あくまで私の勝手な推測に過ぎないけれど。
 そして対象について理解が深まると同時に、私自身についても知っていく。なぜその言葉に引っかかったのか。なぜそこを理解したいと思ったのか。私が知りたいと思うこと、自分の中で解決できなかったものを、他者を通じて答えを得ているのだ。

 あそこにはわくわくが詰まっている。行けば毎回いくつもの問いと解を得られる。おもしろい事象、尽きない話、疑問に答えてくれる人。
 原稿を書く必要のない取材は、好きなだけ範囲を広げて聴いていられる。どれだけ話が散らかっても、その中から問いを得て、また次の機会に聴いた話をつなぎ合わせてつなぎ合わせて解を探る。問いと解が明らかになると同時に、未だ知らなかった自分と出会える。私ってこんなこと気にしてたんだと、ここでもまたぱーっと霧が晴れる。
 でもまだこの文章を解とするには物足りない。まだ情報が足りてない。だからまたあの場へ行こうと思う。(次からは、ちゃっと飲んで、さっと話を聴いて、朝4時半までもいないようにするんだ)



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