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だらだら話そう

 絶賛、(私のせいで)関係悪化中の友だちがいる。私はその人と話すのが大好き。そもそもはその人が大好き。だから、あふれ出る言葉をたらいのように受け止めるのも好き。できれば全部飲み込みたいから「それってどういうこと?」と噛み砕いてもらう。
 本当に言葉数の多い人で、そもそもその人を大好きになったきっかけも言葉を尽くしている場面に遭遇したから。



 ある夜、いつものように深夜2時だか3時だか、ふたりで酔っ払って話していたときのこと。その日はいつもよりディープな話をしていた。
 たぶん、ちっとも自分の言いたいことが伝わってないと思ったのだろう。葛藤していると語るその人に、私は私の勝手な思いを押し付けようとしていたから。
「もっと端的に話さないとだめ。誰にでもわかる、短い言葉で言える能力が自分には欠けてる。端的に表現できれば、お互いの時間が無駄にならない」
 強い調子でそう言う。
「そんなのつまんない。端的に話されたら、その人のことを知れないじゃないか」
 そう反論したけれど、その人はちっとも聞いてくれなかった。



 ともに酔っ払いながら、とりとめなく話すのが好き。話があっちへ行き、こっちへ行き、同じことを繰り返したり。流れ出る言葉から、その人自身をすくい取る。
 しらふのときの理性によってコントロールされた言葉よりも、酔っ払っているときの言葉の方が話す人の内面がうかがえる。特に理路整然としていないもの、何度も繰り返すもの、声が大きくなるもの、小さくなるもの、間が空いてから出てきたもの。それは考えではなく思いだと感じる。
 だから、とりとめのない話をずっと聞いているのが楽しい。

 私が話をするとき、知りたいのは話の中身より話している人自身だ。そのために話すわけで。
 だから知りたいと思わない人であれば、端的に話してもらってかまわない。仕事の上ではその方がいい。
 でも。
 世の中の人がみんな、上手に端的に話せるようになったらつまんない。頭で考えたことだけしか話さない。気持ちも感情も乗ってない、ただの記号のような、ピクトグラムのような話に価値はあるのだろうか。
 端的な話に想像力は必要ない。想像しなくてもよくなったら、どんどん世界は優しくなくなっていく。「〜かもしれない」という余地があるから、人は想像し、理解しようとする。理解する、しようとするから、配慮が生まれる。

 とはいうものの、あれだけ多くの言葉を聞いておきながら、想像するのが好きだと言いながら、よかれと思ってしたことで最悪の事態を招いてしまった。理解も配慮も足りてなかった。もう二度と大好きな人の話を聞くことはないかもしれない。
 だからやっぱり、端的に話すのはよくない。端的な話など聞きたくない。いつ話せなくなるかわからないから、いつ最後となってもいいようにたくさんたくさん言葉を受け取っておきたい。
 あなたとも、あなたとも、あなたとも、話がしたい。要点を聞きたいわけじゃない。あなたを知りたいから話したいんだ。





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