高遠石工

今回の伊那行きでは、自転車の先達にして郷土史家で火の見櫓ウォッチャ一のM氏に高遠石工の足跡を案内いただいた。高遠石工とは、江戸時代全国を歩きその石仏作りや石材加工技術で名を馳せた技能集団を言う。高遠藩も石工産業を奨励し、特別な手形を与え自由に出稼ぎをさせ外貨を稼がせ、山奥の藩の財政ををさえる柱としたのだ。前日の台風一過の青天の下、高遠城下青石という貴重な石を加工した石仏を自転車で見て回った。守屋貞治という名工の作なる馬頭観音や千手観音像は極めて精巧な細工が施され、手にした杓や玉座の葉脈など昨日作ったばかりのようなエッジを効かせている。その精巧さもさることながら、200年前から苔むす事もなく一編の風化もない事に驚く。これは坂下青石の硬度によるもので、その硬い石にノミを入れ加工した技のなせるものであろう。

さて、何故この山中の隠れ里のような小藩にこの様な技術の蓄積があったのであろうか?技術の蓄積には、技能の伝承のみならず、技能集団のユミニティの形成が必要であるし、技能のための素材と資本財が必要だろう。コミニティという点では、農業地帯の伊那谷を前に背後を山にかこまれた適度な地勢が人的な集積を進めただろう。山中をたどれば諏訪盆地にぬけられ、伊那街道をとの間で交流がある。この適度な集積規模と交流量がポイントで、財や技能が街道沿いでは流出が激しくなり、広域では散漫になる。財という点では、城下青石の存在が大きいだろう。そして技能は全国各地への出稼ぎ者、いやテクノクラートが外貨をもたらせ、資本蓄積が更なるコミニティを育てた。この様な条件が成立した結果イノベーションは起こったはずだ。

以上、案内のM氏の解説からであるが、肝心の技能はどこから来たのだろうか?M氏もそれはよく解っていないと言う。古くは源頼朝から代々石細工職人として日本国内で仕事が出来るとの許可をもらったものとの由緒書が伝わっているという。古くは縄文遺跡も有り古墳も多く、住みやすい土地だったはずだ。もちろん諏訪大社の由緒も神代の時代に遡る。ここからは、超古代トンデモ系の話かもしれないが、諏訪の祖である金刺氏が九州から、あるいは蘇我に追われた物部が畿内から、と、諏訪へと渡ってきた人々が巨石文化をもたらせたと考えられないだろうか?九州では肥後の石工か活躍したし、熊本や佐賀の山々にはドルメン、メンヒルが存在する。やはり筑紫と筑摩は繋がっているのだ。


文京区と日高市に2拠点居住中。