「モダン・コンピューティングの歴史」で思い出すコンピュータ自史(2)入社して

前のポストでは、大学時代の事を書いたが、社会人になった頃を思い出してみよう。コンピュータの仕事はしたいと思っていたが、コンピュータやシステム開発を生業とする会社はいやだった。当時バブルへ昇る時代でこの様な会社は大量採用だったが、集団に埋もれてしまうことが嫌で、競争に踏み込めない弱気な自分だったと思う。はじめて入った会社は中堅の物流の会社であった。歴史のある上場企業ながら、物流以外にも多角化を進めとくに情報部門を強化するという。新しい事ができそうな気がした。

入社して、私以外の大卒男子の同期は倉庫の現場へ配属され、数年間物流の実務を叩き込まれるのだが、私は情報部門に配属されてすぐにOJTになった。ホストマシンはIBMのS/38で、メモリ空間が単一レベル記憶がとRDBのアーキテクチャが先進的だった。言語はRPG。前述のとおり大学時代にCOBOLをバイトでやってたので、事務計算に特化したRPGは簡単に覚えられた。所属長はこの会社にコンピュータを導入した人で、システムに対する先駆者としての見識とこれからのコンピュータの時代を見すえた人だった。先輩たちも皆物流の現場を経験した人で、システムで採用されたスキルもなく、プログラミングは勉強中の中の人もいた。コンピュータスキルと実務経験と年次のバランスから多少の抵抗感が有ったが、仕事をしてゆくうちに受け入れられたし、なにしろ所属長にはよくしてもらった。

S/38をホストにする一方、パソコンが現場に導入されてきた項でマルチプランやワープロをインストールする導入のサポートもやった。IBMホストということもあり5250コミュレーションか動くIBM5550が多かった。まだ8インチディスケットをつけたものあったと思う。プリンターもこみで150万ぐらいしたと思う。すでにIBM/PCは海外で普及していたが、日本市場はダブルバイト対応とNECの牙城という事なのか、独自の展開であった。それが後々THINKPAD等に繋がるのだが、ことパソコン戦略についてIBMは、グローバルでもOSの問題も含め様々な展開も迷走というべき事もあったと思う。5550では図書館のカード管理システムを作った。当初別の人間がRPGのパソコン版で開発していたのだが、書籍情報は文字の処理が多くてそんなの無理だった。自分は可変長ストリングス処理ができるBASICをやっていたので、代打で入ってなんとか仕上げる事ができた。今思うとなんて無茶な受注をしたかと思うが、新しい事業部はそんなもので、失敗も許された。あと、COBOLができたので富士通Kシリーズもやった。これはこれで受託の比較的大規模な開発で、外部に委託しながらではあるが事業部として始めてのマシンだった。これも大学時代に同系のマシンでバイトしていたのが生きて、すぐに帳票のプログラムやメンテナンス作業をやり、IBMしかやった事が無い先輩にも教えた。このシステムは全国20ヶ所ぐらいにインストールする必要が有り、また通信のない時代で、フロッピーを持って連続で出張してインストールとバクフィックスをした。入社1年目の事であるが仕事は楽しかったし、コンピュータが純粋に面白かった。

入社2、3年はそんな感じで、なんでも屋的にやってたと思うが、ただ籠ってもくもくとプログラムを作っていたわけでなく現場で人と接していたのは本当によい経験だったと思う。システムだけでなく業務知識を急速に吸収した。


文京区と日高市に2拠点居住中。