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ビックリマンあっち側こっち側

ビックリマンチョコ直撃世代。
なんだと思う。オレは。
小学生の頃にビックリマンが超絶大ブームだった。
多くのクラスメイトがシールを集めていた。

大量にビックリマンチョコを買って、シールがお目当てだからシールだけ抜いてチョコは捨ててしまうというのが社会問題になったりもしていた。
僕はビックリマンに潤沢に投資できるほどのお小遣いを持っていなかったので、特にシールを集めることもなく、放課後一緒に遊んでいた友達がビックリマンを買ってチョコを捨てようとするのを制してそれをもらう、という感じのビックリマンとの付き合い方であった。

大人になってからビックリマンの話題になると、チョコ捨て問題の流れになる。
話を聞いていると不思議なことに気づく。
それは、みんなこっち側だということだ。

こっち側とは、「友達が捨てようとしていたチョコをもらっていた」側。
大人になってからビックリマンの話をする時、そこに「ビックリマンを大量に買ってチョコを捨てていた」側の人がいないのだ。
出会ったことがない。

ビックリマンの話題になって、チョコ捨て問題の流れになると「あー、オレ、その捨てられそうなチョコをもらってた方だわ」と誰かが言う。
すると周りの人も「オレもー」となるのだ。
大人になってから出会う人はみんな「友達が捨てようとしていたチョコをもらっていた」側なのだ。

よくよく考えたら、そんなことってある?

大人になってから出会うのは、こっち側の人ばかり。
あっち側の人に出会わないのはどうして?

理由は二つ考えられる。

1.【倫理観説】
大人になってから仲良くなる人は、おそらく根本的な倫理観が近い人。
倫理観が相容れない人とは無意識のうちに距離をもつようにしている。
倫理観の大枠は子供の頃にすでに形成されていて、チョコを捨てるなんて考えられないし、捨てるんだったらちょうだいよ、となる。
そういう倫理観の人がそのまま大人になって、その人達が仲良くなって昔話をすればそりゃあみんな「こっち側」ということになる。

これが【倫理観説】。
いつもビックリマンのことを考えるたびに、だいたいこの結論に至る。
納得できる説だと思う。
もちろん、「こっち側」の輪の中に「あっち側」の人が混じっているケースもあるだろうが、そこで「え、オレは捨ててた方だわ〜」とはなかなか言えないと思うので、「あっち側」の人は「こっち側」のふりをしてビックリマンの話題をやり過ごしているんではないかと思われる。

2.【あっち側なんてない説】
自分は子供の頃、あっち側の人からチョコをもらっていた。という記憶を持っているが、果たしてその記憶は確かなものなのか?
本当にあっち側の人からチョコをもらっていたのか?
じゃあ、具体的に誰からもらったのか?
そう考えてみると、具体的な友達の顔が思い浮かばない。
放課後、友達とコンビニに行って、じゃあそこで誰かが大量にビックリマンを買って、チョコを捨てようとするのを制してそれをもらっていたか?
本当に?誰から?

あっち側の人なんていなかったんじゃないのか?
少なくとも僕の周りには。
テレビでやっていた「チョコ捨て問題」を見て、何となく自分の記憶に刷り込んでしまったんではないか?
あっち側なんてないんじゃないのか?

そう自分を問い詰めると、自分の記憶がどんどん曖昧なものになっていく。
コンビニの前でチョコをもらって食べていた、という記憶が疑わしいものに思われてくる。
てか、コンビニなんか行ってたか?
てか、放課後、友達と遊んでなんかいたか?
てか、オレは本当に存在しているのか?
てか、この世界は本当に……

・・・・

あまり深掘りしてはいけないことなのかも知れません。

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