テレビ局19年勤務を経て、フリーランスのジャーナリスト ・ライターに。

私のプロフィールを、少し詳しくお伝えします。

2016年4月に、フリーランスのジャーナリスト ・ライターとして独立しました。この時42歳で、すぐに43歳になりました。
それまでは、株式会社大分放送(TBS系列のテレビ・ラジオ兼営局)で報道部に15年、東京支社営業部に在籍し、合計19年勤務しました。

ローカル局の報道という仕事に関わった経験から、いつまでも現場で働き、また少しでも誰かの、何かのお役に立てればという思いで、この仕事を選びました。

これだけ読むと、ちゃんとした人間のようにも見えますが、もちろんそんなことはありません。

基本的に雑草的な気持ちで世の中と向き合っています。それはここまで見てきたこと、考えてきたことが影響しているのでしょう。基本的に、くだらないエピソードがほとんどです。しかも長いので、お暇があればで結構です。

1973年4月 誕生

生後間もない7月に、両親が大分市西鶴崎の鶴崎駅前で喫茶店と雀荘を開業。店に置いているたくさんの漫画誌とスポーツ新聞を読みながら幼年期を過ごす。

保育園が浄土真宗のお寺だったため、親鸞さまをリスペクトしていた。卒園後もしばらくは、本棚に置いた親鸞さまの人形に手を合わせていた。信仰の仕方としては間違っていたのかもしれないが、何か、守ってくれるような気がしていたと記憶している。

1980年4月 大分市立桃園小学校入学

まだ体育館がなく、小さなグラウンドと講堂しかない小学校だった。第2次ベビーブームの年代だったためか、近くに新設校ができるまでの間は教室が足りず、自分の学年だけ一部がプレハブ校舎に。自分の3年生の時のクラスはプレハブではなく図書室だった。

小学校1年の時から、当時相次いで創刊された青年誌を読む。本屋で店の領収書で買って、自分が読んでから店に置いていた。創刊当時の青年誌は、当時としてはエロいものだったので、本屋の店員さんには買う時に「それ自分で読むの?」と訝しがられ、「いえ、店で置くだけです」と答えていた。

5歳の時に始まったザ・ベストテンは1回目から見ていたが、ルビーの指環が大ヒットした時期からなぜか見なくなり、以後ラジオを聴くようになった。よく聞いたラジオは地元大分放送の自主制作番組と、谷村新司の青春キャンパスと、オールナイトニッポン。この頃から井上陽水やRCサクセションが好きになった。

小学校1年生のときから南海ホークスファンで、夜になると電波が入り出す大阪の放送でナイターを聴いた。南海ファンが高じて、同じ色を使ったユニフォームだった地元のソフトボールチームに入る。

その他に水泳もしていた。人生で一番運動をしていた時期だった。

1985年4月 6年生で大分大学教育学部附属小学校に転入

妹が2年生にいたこともあり、転入試験を受けた。しかし、学校が遠かったため、それまでしていたスポーツは全てやめた。夜は男女関係なく長電話をして、ほぼ全ての曜日のオールナイトニッポンを午前3時まで聴いてから寝る、というよろしくないガキだった。

小学校高学年の頃から、神社仏閣巡りや、遺跡巡りが好きになる。

学校で尊敬している人を答えるアンケートで、手塚治虫と門田博光と書いていた。

1986年4月 大分大学教育学部附属中学校に入学

自転車で35分から40分かけて通った。大分の中心部を通っていくため、まっすぐ家に帰ることはなかった。中1、中2の時は、学校もサボり気味(理由は具合が悪いとか、腰が痛いとか)だった。

部活動は、最初テニス部に入ってみたが、1か月もしないうちに水泳部に変えた。水泳部は部員が少なかったのと、まじめに練習していなかったためか、自分たちの代で廃部にされてしまった。

中2の夏休みに、ブルートレインで1人で東京に行き、2週間旅する。ほとんど会ったことがない親戚や親の友人宅を泊まり歩いて、大変お世話になる。田舎と東京の違いをまざまざと感じる。

中3の頃には、大学はどこかの文学部に進んで、哲学もしくは東洋哲学を学ぼうと考えていた。

1989年  大分県立大分南高校に入学

中学時代に遊んでばかりいたので、まじめになろうと、家から自転車で川沿いを山の方に進んで45分もかかる学校を選んで入学。当時は合同選抜制度といい、普通科高校をブロックに分けて振り分ける方式だった。

自分は希望した学校に行ったが、この学校、1学年450人のうち、希望してきたのは約80人で、あとは全員「まわされた」のだという。大分市内では最も田舎にある学校で、希望者が極端に少なかったのだった。

高1、高2は皆勤。部活に入らずとも毎日の自転車通学で、体は引き締まった。

高1の冬に手塚治虫が亡くなりショックを受ける。以後、尊敬する漫画家は手塚治虫、特に好きな漫画家は上村一夫、つげ義晴、山上たつひこ、しりあがり寿になる。後年、水木しげるも特に好きな漫画家に。

高2の時、京都を1人で旅する。JTBの「旅」を愛読する(現在は廃刊)。

高校の頃から趣味は温泉めぐりと読書。高3の時は着替えのパンツとタオルを持って学校に行き、帰り道にある温泉に入って帰っていた。

1992年 早稲田大学第一文学部に入学

桃園小学校時代からの親友と同じ家に間借りする。風呂なしで家賃は4万円。
最初の数か月だけ4万円の仕送りをもらったが、「もういいかな」と言われ以後、授業料は奨学金、生活費はバイトで稼いだ。

最初にバイトの門を叩いたのは、先輩に連れられていった雀荘。雀荘での接客経験があったことと、パイ拭きができたことで即採用、高待遇をゲットした。雀荘の息子であることが役に立ったことに驚いた。

学校にはほとんど行かず、1年生で留年。新宿区の家賃2万8000円、風呂なしトイレ共同の古いアパートに引っ越す。奨学金が停止されたことで、2年目の前期の授業料を12月24日に支払ったのがクリスマスの思い出。この年、原因不明の高熱などで40日入院する。

4年目(3年生)には、入院により大学生協から保険金がおりたので、その金を原資に、近くにある風呂トイレ付き、1Kの古いアパートに引っ越した。家賃は5万8000円。この頃にはバイトは常に4つ以上掛け持ち、月収は27万円。残った金は全部飲み歩いて使っていた。

ちなみに、大学時代に経験したアルバイトは15種類。雀荘、深夜の牛丼屋、スーパーのレジ打ち、オフィスの掃除(時給換算で8000円!)、文芸坐のオールナイト、レンタル用のVHSビデオの箱詰め、明治神宮外苑のゴルフ練習場のフロント、ケーブルテレビ、テレビ番組のスタジオ観覧、深夜の宅急便仕分け、イベントの設営、東京ドームの会場スタッフ、清掃、花火大会のスタッフ、実家の喫茶店(時給は200円だった)。

5年目にも46単位残っており、本来であれば卒業見込みは出なかったが、2年目の入院を口実にして見込みを出してもらう。しかも最後の試験では、2つ単位を落としてしまう。

1つは再試験が許されない不可だったが、担当教員と直接交渉して可にしてもらう。もう1つは再試験。卒論担当の先生による英語だったが、全くできていなかったため、終了後も先生の部屋で全問正解するまで受けて、可をもらった。こうして、5年でやっと卒業した。

卒業後、「本当は卒業できていないけど、会社に嘘をついて働いてる」という夢を10回は見たと思う。目が覚めて、本当に卒業したんだっけ?と考えたことも数回あった。

1997年4月 株式会社大分放送入社 報道部配属

報道部に配属。最初の2年間は警察担当。3、4年目は住み込んでの別府担当。別府の温泉と、夜の飲屋街を満喫する。この頃から選挙取材も担当。

5年目からは警察担当に戻り、8年目の途中から県政担当。15年目にはデスク。

報道部時代はドキュメンタリーを制作。九州の系列局での放送のほか、TBS深夜の「報道の魂」枠で全国放送も経験。国政選挙では、テレビやラジオの生報道で解説を担当した。福岡西方沖地震の応援取材のほか、2011年の東日本大震災では、3月20日から10日あまり福島で応援取材。

35歳前後で、毎年、間質性肺炎にかかるようになり、2度入院した。この頃から、42歳以降のキャリアチェンジを考え始める。
その詳細は、「#SHIFT ITmediaビジネスオンライン」に書かせていただきましたので、こちらをどうぞ。

『考え抜いた「不惑」の意味:兼高かおるさんが唱えた「42歳定年説」だから私は19年勤めたテレビ局を辞めた」 https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1901/25/news009.html

2012年3月 東京支社営業部に異動

家族で東京に移り住む。2年間は営業の外勤、次の2年間は営業のデスクも兼ねる。

2014年4月から5月に開講された、「上阪徹のブックライター塾」第1期で学ぶ。1年余りかけて独立を決意し、2016年3月末で退職。
この経緯の詳細も、上記「#SHIFT ITmediaビジネスオンライン」に書いています。

2016年4月 フリーランスとして独立

現在に至る。





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田中圭太郎

ジャーナリスト・相撲ジャーナリスト・ライター。大分放送で19年勤務後、フリーランスに。雑誌は「調査情報」「大相撲ジャーナル」、WEBは「現代ビジネス」(講談社)などで執筆中。「上阪徹のブックライター塾」1期生・3期生。http://tanakakeitaro.link/
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