11年前の今日、 日本中が

ありえない光景を見た。

テレビの追悼番組を見ながら 思い出したことがある。

11年前のあの日、 私はまだ広島の職場にいた。

14時46分! 確か群馬の人と電話をしていたと思う。

その人はテレビで 私はラジオで、

その一報を聞いた。

そういえばその日、 私の姪っ子は、

大学の卒業旅行で 仲良しの友達と東京に遊びに行っていたっけ。

ちょうどその時間は原宿にいて、

強い揺れが起きた時、 1人の友達がパニックになったとか。

広島では体験したことのない揺れで怖かった!けど、

パニックになった友達をなんとかしなければと 周りの友達とともに必死で

道路に飛び出そうとするその子を 必死で止めた。

地下から地上へと上ってくる人たちで、

あっという間に人の渦というか、

人だまりができたのを見た。

地下にこんなにも人がいたんだ!

そんな人たちの中にもまれながら とにかく歩いた。

とにかく東京駅を目指して歩き続けた。

わが娘が東京にいると言うことで 心配した母親(姉)は、

何度も何度も電話をかけ続けるが、 電話はつながらない。

どうしたんだろう? 大変なことに巻き込まれているんではないか?

怪我でもしているんじゃないか? どういう状況なのか?

まさか、、、

連絡が取れないと言うことで 不安が増大し

良くないことだけが頭をよぎる。

そんな思いにさいなまれているときに 電話があった。

「友達も私も大丈夫よ。

たくさんの人の波に揉まれながら 今東京駅を目指して歩いているから」と言う。

常に状況を知りたいと言う思いはあるけれど、

携帯の電池に限界がきそうだと言う。

心配ではあるけれど、

娘からの連絡を待つしかないと 自分に言い聞かせ

何とか落ち着こうとするも落ち着かない。

どれぐらいの時間が経っただろうか、

娘から連絡があった。

「何とか最終の新幹線に乗ることができた」と。

しかしその新幹線は岡山止まりで、

広島にはその日帰ってくることができなかった。

その夜は、 岡山が実家であると言うお友達の家でお世話になったそうだ。

そして次の日、 無事に帰ってきた娘を見た母は

ようやく不安と心配から解放された。

24時間にも満たない時間だったと思うけど、

その心配はどれほどだっただろう。

しかし現地では、 お亡くなりになられた方もいらっしゃれば、

行方がわからない方もいらっしゃる。

一瞬のうちに波に飲み込まれ、

家も家族も仕事さえも失った人。

生きる気力さえなくしたしまった人。

考えるだけで胸が苦しい。

11年経った今もなお

その苦しみの中に身を置き


傷つき壊れてしまった心を抱えている人たちがおられる。

生きるとは、死ぬとは、命とは、

そんなことが目の前に突きつけられる。

ありがたいことに 今私はこうしてここに生きている。

生かされている。

そんな私ができることがあるのか?

もしできることがあるとするならば、

それは 生かされた自分の人生を

精一杯生きると言う事だけだろう。

今こうして生かされ、 命をいただいている私ができる事は、

精一杯この人生を生きる!

今を生きることだ!と思う。


どんな苦しみも楽しみも怒りも、

生きていればこそ味わえるもの。

亡くなられた方方のご冥福を祈りつつ

11年経った今日 改めて思うのでした。

#11年前
#3月11日
#東日本大震災

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