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書籍編集者が担当した本を紹介するための長い言い訳

はじめまして。
私は渋谷にあるNHK出版という会社で、書籍、おもに新書と翻訳書の編集をしています。編集者として今年で10年選手になりました。

これまで編集を担当した本は追々ご紹介させていただくとして、登録だけして6年ものあいだ放置していたnoteを遅まきながら始めます。この場では、おもに自分の担当した書籍について、スタートからゴールまで関わった身としての立場から、その魅力を伝えたいと思います。

版元のアカウントではなく、なぜ個人の書籍編集者としてそういうことをやるのか。最初にその話をさせてください。

私は「NHK出版新書」という新書レーベルのなかで編集しています。言うまでもなく新書は、作る側としても売る側としても、かなり足の早いメディアです。競争もとても激しい。毎月、たくさんの出版社から多くの新刊が発売されて、書店の平台に置かれます。その裏では、ひとりの編集者が年間で何冊もの本を世に送り届けています。同時並行で1年後や2年後、あるいはもっと先の企画についても思いをめぐらせ、著者の方と話をしている。自分もまたその中のひとりです。新書というメディアが私はとても好きです。

ただ、ひとりの編集者の率直な実感としては、そうしてたくさんの企画を同時平行で進めていると、ひとつの仕事を校了まで運べたら、すぐさま次に刊行を控える本のことに気が奪われてしまいがちです。時間をかけて書き手の方と歩んだ大切な1冊なのにもかかわらず。すぐ次の本の刊行が具体的なリミットをもって迫ってくるからです。そのスピード感が新書の醍醐味といえばそうなのですが、自分の果たすべき役割はそれだけでいいのか、という思いをずっとくすぶらせていました。放っておいたら、本はあっという間に市場に埋もれてしまいます。担当書のどの本にも思い入れはありますが、忙しさに流されていると、その思いにさえフタをしてしまうこともしばしばです。

新書というジャンルはやや特殊です。器の懐の深さゆえ、あらゆるジャンルやテーマが本になり得ますが、ある学究の本格的な入門書があり、老後の資産や心得を説くものもあり、執筆に十年近くかかった労作もあれば、雑誌の特集に加筆をしたようなライトなものもある。よく言えば多様性に富み、悪く言えばバラバラです。それは「新書」という器に対する考え方が、作り手によって異なるからだと思うのですが。

また、(最近はけっこうマシになりましたが)一度売れる本を出した著者の前には長蛇の列ができ、同じような著者の同じような本が量産されていきます。社内で「3~5万部を狙える本を(編集部の中で)いつまでに〇本出せ」とハッパをかけられることもままあります。

これって変だなと思います。商売である以上、セールスが重要であることは言うまでもありません。ですが、レーベルとしての一貫したコンセプトや読者に何を問いたいのかといったことよりも、「売れること」こそ至上であり最優先されるのは、本というものをなにか愚弄しているようで、じわっと自分が傷ついていくのを感じます。少なくとも私は「愛情はないけど企画会議にはすぐ通る」本をつくる消耗戦には参加できません。

大きな話は、いまの私がどうこうできるものではありませんが、自分がやっていること、やってきたことを書き留め、発信していくことは、自分がやっていることの意味を原点に立ち返って顧みるきっかけになるかなと思いました。同時にそれが、本の認知に向けたささやかな働きかけになればと思っています。

1冊の本は、少なくとも10年単位で売られるべきものでしょう。自分が関わった本が長く読まれる小さなきっかけになればと思って(あと会社のアカウントでは、いろいろ事情や制約があり自由にできないこともあって)、noteを始めることにしました。

とはいえ。

担当した本を個人として紹介するのはむずかしい!

ここからは言い訳タイムです。書籍編集者が自分の担当した本を個人として紹介することには、じつは独特のむずかしさがあります。そのむずかしさは何に起因するのか。大きく2つほど挙げてみます。内部的なことと対外的なことです。

その1 著者との関係をめぐる問題

書籍編集はひと言で説明することがむずかしい職業です。しかも書籍編集とひと口に言っても、さまざまなタイプの書籍があるし、人によってもずいぶんとスタイルが違います。だから必然的に自分のやっている書籍のタイプとスタンスに引きつけた話になりますが、書籍編集とは「本が生まれる現場に、最初から最後まで関わる人」ではないかなと。

しかし書籍編集者は著者あっての仕事であって、編集者は「黒子」です。なので大前提として、著者をさしおいて編集者が前に出るのは、構造として変だというのが自分の立場です。優れた才能を持つ書き手と、さまざまな話し合いを重ねながら、一冊の本を作っていく。書き手と書籍編集者の関係は一般に想像されづらく、一概にも言えませんが、その関係が端的にわかるのが、すべての出発点となる執筆依頼だと思います。社会学者の大澤真幸先生が『思考術』という本の中でこんなことを書かれているので、長めですが引用します。

もうひとつ、執筆の依頼を引き受けるかどうの重要な決め手がある。編集者に対する信頼である。編集者と話していれば、その人が優秀かどうか、こちらの仕事を理解してくれているかどうか、ということが自然にわかる。編集者が、こちらの仕事の意味や価値を理解してくれていそうもない、と感じたときには、執筆への意欲は大幅に低下する。

(大澤真幸『思考術』河出ブックス p.255)

こちらは常に書き手から試されています。そのくらい一冊の本をつくるのは書き手にとって重みのあることだし、多くの本は、著者との信用関係の上に生み出されている。である以上、ものの道理として、書き手をさしおいて積極的に前に出ていくわけにはいきません。それがむずかしさの原因だろうと思います。

その2 お前は何者なの?という問題

ここからは対外的な話です。著者の方が「○○という本を出しました。こういう本です。ぜひ読んでください」という告知と、一介の編集者が「○○という本を担当しました。こういう本です。ぜひ読んでください」という紹介は、ずいぶん違います。読者からすれば後者は「著者ではないあなたは誰?」という感じではないでしょうか。

かつて日経ビジネスオンラインに、書籍編集者が自分の担当した本を紹介するコーナーがありましたが、それは「編集者が自分の担当した書籍を紹介する」という”枠組み”を、読み手と共有しているからこそ成立しているものでした。編集者が何者かなんて普通はわかりません。

加えて、世に出たものをジャッジするのは受け手だから、作り手側の人間が何か言うのは野暮だ、などという問題もあるのですが、このへんの話は煩瑣になるのでやめておきます。


以上のようなむずかしさはありますが、猫が毛づくろいをするくらいのしめやかさで、こっそりこの場をスタートさせてみます。まだ新人だった頃、今はWIRED日本版の編集長をしている松島倫明さんに「編集者は個人商店としてやっていくべきだよ」と言われたことをいつも思い出します。当時松島さんが話してくれたニュアンスとはちょっと違うかもしれませんが、このnoteは、私なりのささやかな個人商店です。試行錯誤しながらの運転になりますが、よろしければどうぞお付き合いください。

田中遼


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