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8.6水害を経験した話と、いま寄付することについて

いまから25年前の1993年8月6日、鹿児島を襲った集中豪雨。

全国的にどれくらい知られているできごとかわからないけれど、この「8.6(はってんろく)水害」は死者が50人近くにのぼったこともあり、鹿児島人にとっては忘れられない災害だ。

わたしはそのとき幼稚園生で、なんだかふつうじゃない雨が降ってるなあ、くらいの感覚だった。庭で飼っていた犬(柴の保護犬レオ。オスと思って名前をつけたらメスだった)を「さすがにこの雨はかわいそう」と親が玄関にあげてくれて、いつもより近くにいられるのがうれしかった。ただ非日常に興奮していた。

しかしその後、家のすぐそばを流れる甲突川が氾濫したと聞く。このときはもう雨戸を閉めていたから、外の様子はわからない。とにかく靴箱の中のものを階段に避難させ、急いでレオを二階にあげた。

間もなく、玄関ドアの隙間から濁った水がずるずると入ってきた。大事なものをせっせと二階へ運ぶ親を尻目に、長靴を履いて玄関におりる。黄色い傘で茶色い水をこねくり回す。玄関が汚いプールみたいになっていく、ありえない情景。水位が玄関の半分の高さになったころ「危ないから上がりなさい」と言われ、さすがに不安になりながらも二階で寝た。

朝起きると雨は止み、玄関から水は引いていた。でも、世界は茶色かった。くさかった。カピカピしたり、どろどろしたりしていた。奇跡的に玄関の上ギリギリのタイミングで水が引き、床下浸水で済んだけれど、一階部分のリフォームを余儀なくされた。

大好きだった近所の5つの石橋のうち、2つが流失していた(ちなみに、幕末に調所広郷が架けさせたこの石橋たちの多連アーチが氾濫の原因、と言われている)。

わたしは泥かきが落ち着くまでの間、被害のなかった地域に住む友だちの家に疎開に出された。

——これが、5歳のわたしが見て記憶している災害の風景だ。西日本のニュースを見ていると、あの現実離れした経験を思い出さずにはいられない。

寄付について考える。

あのときはまだインターネットなんてなかったけど、きっと全国のレジ横や街頭といったリアルな場で集められたお金が、鹿児島市民がもとの生活に戻るための支えになっていたはず。わたしは25年前、どこかのだれかの寄付の恩恵を受けていたはずなのだ。

こんなに災害の多い国に生きるわたしたちは、「日常側」に立つこともあるし、「大変な側」に立つこともある。だから、自分が「日常側」にいるときはできるサポートをしたい。深刻さがまったくわかっていなかったなりに、少しだけ「大変な側」を経験した人間として、そう思う。

元の生活にはやく戻れますようにと願いを込めて、「ふるさとチョイス」経由で「どこかのだれか」になりました。

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