ほめ言葉としての「子持ちに見えない」

いま住んでいる家の近くには古き良き商店街がタテヨコに走っていて、お総菜も豊富な魚屋のおじいさんや新鮮でめずらしい野菜を取りそろえている八百屋のおじちゃん、おいしい揚げ物屋のおばちゃんなど、気持ちのよいひとたちがたくさんいる。

今日も保育園に向かう前に魚屋に寄ってさわらの切り身を買い(店主のおじいさんと相談のうえ)、八百屋へハシゴした。

「今日はカブがいいよっ。甘いよ!」

いつもの威勢のいい声が、日の落ちた商店街に響く。カブかーとメニューを考えていると、声の主のおじちゃんに「お姉ちゃん、カブどう? そのままでも柔らかいよ。甘酢漬けなんかいいよ」と声をかけられた。

「1歳児が食べるんだけど、少しチンするだけでいけます?」

そう聞くと、「そりゃもう大丈夫!」と満面の笑顔。「それにしてもお姉ちゃん、ほんと子持ちには見えないよなあ」

「あらー。カブください♡」

……そんなやりとりを交わし、保育園に走った。なんというか、いつもの「お約束」だ。

そしていま、このやりとりを思い返して考えている。

「子持ちには見えない」は、なぜほめ言葉になるんだろう。なんでわたしはいつも、反射的によろこびの感情を表明するのだろう。でも、たしかにただの「若く見える」「20代かと思った」と言われるのとはまた違う感覚なんだよなあ。

娘が出しまくった絵本の片付けをしながらぼんやり考える。そしてわたしの中に、多くのひとの中に、ステレオタイプの「母親像」がしっかりと植えつけられているんだなと痛感する。

家事育児に精一杯で、自分の生活を充実させる余裕がない。
デザイン性より実用性を選ぶ。
女性や妻より、母親業優先。
髪も肌もパサパサ。
いかにも「子どもを産んだ体型(とくに下半身)」。

——いわゆる「所帯じみているひと」の像だ。お母さんって、大変。言葉を選ばずにいえば、くたびれてる。

だから、そうじゃないひとは「子持ちに見えない」。言うほうもポジティブな意味で(ときにはお世辞として)発言するし、受け手も「むかしと変わらない自分」「まだまだイケる自分」に安心する。うれしくなる。

でも、じゃあそんなステレオタイプそのままの母親が、実際に周りにいるかというと……NOだ。

知り合いのママたちは、東京の友人も地元の友達も、仕事復帰したひとも専業主婦も、年下も年上と、くたびれてなんかいない。おしゃれだし、いきいきしているし、パートナーとは仲良し。
子どもを産む前と同じ人間というか、「変わっていない」のだ。

それに街を歩いていても、きれいでかわいいママばかりだ。むしろ「あからさまにくたびれたママ」のほうが、マイノリティになっている気がする。きっと「子持ち」の言葉のイメージだけが、昔のままなのだろう。


わたしももしかしたら若いころ、年上の女性に向かって「子持ちに見えない」「ママに見えない」という言葉を使ってきたかもしれない。もちろんよかれと思って。

でもちょっと慣用句的というか、なにも考えてない発言だったな、恥ずかしいなあと思う。こういう無自覚な言葉遣いが、おおげさに言えば社会のイメージにつながってしまう気がするから。

そうすることをひとに強いる気はまったくないし、正直しばらくは「子持ちに見えない」と言われたら一瞬よろこんでしまう気はするけれど。デリケートな言葉を使う前には「ほんとうにそう?」と一度立ち止まるクセをつけたい。

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田中裕子

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